2010年11月25日木曜日

アルバニアはもうアジアな感じ

いつも列強国にやられて苦い思いをしてきた歴史のアルバニア。
戦後は共産体制になるも、ソ連と袂を絶ちさらには中国とも絶縁し
鎖国の道を選びヨーロッパ最後の秘境とも言われるアルバニア。
共産体制が崩壊した後には、知識や情報を持たない国民が
数十社もあるねずみ講に騙され(体制中枢エリートが関与)、
どの会社も破錠し、国民の3分の1の財産が吹っ飛び
国内で暴動が起き、ついには非常事態宣言、そして
多国籍軍に依頼という悲しい国。
モンテネグロがラテン語で黒い山ならアルバニアは白い大地。

やはりアルバニアの首都ティラナに到着した時も
天気はさえなかった。ここ数日太陽を見ていない。

今回も予約済みにも関わらず、宿を見つけるのに結構時間がかかり
というのも、やはり看板がなかったので同じ通りを
右往左往してしまったからだ。
三階建ての一戸建てを使った宿で、スタッフは出入口の門扉まで
迎えに来てくれた。

スタッフは耳も口も不自由な青年で応対は全て身振り手振り。
細かいことは筆談だ。
こちらも元々英語が喋れないので、何ら不自由はない。
ただ、耳が聞こえなくても口の動きでわかるらしいのだが
僕の英語の発音があまりにも適当なので、口の動きでは
わかってもらえないという英語ベタの現実。
宿には僕ら以外の宿泊者はいない。
この季節のユーゴ圏はほとんど宿泊客はいない。
そして停電ではなく、断水。
この国では計画的に停電や断水が行われるらしく、各家庭で溜水が
用意されている。


翌朝はやはり雨。しかも雷雨。
ティラナから南のサランダというギリシャ国境と数キロしかはなれていない街に移動する。
バスで約6時間から8時間と聞く。
基本的にアルバニアにはバスターミナルがない。
「だいたいここらへんにどこどこ行きのバスが何時頃くる」というような情報しかない。
僕らは、あやふやな情報を頼りに雨の中立ち尽くした。
結局バスを捕まえることはできず、午後1時過ぎにミニバス(乗合ワゴン車)に乗った。
このミニバスが凄かった。
土砂降りの山道をブンブン飛ばす。乗り心地などは関係なしだ。
そして前方の車をバンバン抜き去っていく。
なんともアグレッシブな運転だ。
二車線の道路を対向車が来ても三車線状態で追い抜きをかける。
もう冷や冷やするし、縦揺れ横揺れで読書や睡眠は到底無理である。
これを数時間走ると、さすがに慣れているはずの地元住民たちも
酔って吐き始めた。
舗装道路もなくなり砂利道悪路でますます極まってくる。
車窓からは道路脇に転がり落ちた大型バスの残骸が見えたりして
ゾッとさせられる。
今僕達の旅は大まかに東に向かっている。中東、アジアに向かってる。
これからこんな移動が増えるんだろうなぁと思いながら
荷物も軽くなっていくけど、自分の命も軽くなっていくんだなぁと
しんみりしてしまった。
5時間の間に一度10分ほどの休憩を入れただけで、暗くなった村で
車は停まり、運転手は降りてしまい、酒を飲み始めた。
酒は現地の蒸留酒ラキアである。40度前後はある。
そして、わけわからず僕も飲まされた。
もう、このオヤジは運転放棄だ。
今から来るバスに乗り換えてサランダに迎えという。
どんなシステムやねん!

バスが山の向こうから来ると、運転手のオヤジが大手を振って
バスを停めに行った。そして何やら交渉。
何故か支払なしでバスに乗車でき、1時間後にはサランダに到着。
大雨は最高潮で雷もこれでもかっと瞬く。
到着地点は坂道で、もう道路は川の如しで、バスから降りられない。
バスで一緒になった日本人夫婦と意を決して宿へ向かう。
その日本人夫婦は僕らのブログやツイッターをたまたまチェック
してくれたらしく、僕らの動きは読まれていた。
しかし、彼らの行動はコトルを僕らより1日早く出ている。
にも関わらずサランダへの途中の村で同じバスに乗り込んできたので
どうも僕らを別人だと思ったらしい。それくらいアグレッシブな運転のミニバスだったのである。


宿に向かう途中で、幸運にも雨はやんだ。
車に乗ってただけなのに、長い一日だったなぁ。

翌日の朝は快晴で、宿のベランダからは穏やかなサランダの海が見えた。


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