2011年1月30日日曜日

リゾート気分を求めて更にタイへ越境

バスでやって来たペナン島へは船で渡る。
パンコール島で出会った日本人に聞いたとおりに
ペナンの海は汚かった。いや、キレイではなかった。
すっかり泳ぐことは諦めて、滞在も一泊にとどめて
ジョージタウンを散策して翌日移動することにした。
ジョージタウンは中華街でたくさんの中国人が宿や
食堂を経営している。
僕らは噂に聞いていた宿を目指したが、偶然その日は
WiFiが使えないというので、仕方なく同じ通りの宿に
値段を聞いてみると、さっきの宿よりも安くWiFiが使える。
ダブルルームで二人一泊25リンギット。日本円にして671円。
ドミトリーなら10リンギット。こりゃイイ。
この宿もどうやら華僑系みたいだ。(75トラベラーズ ロッジ)

華僑系の屋台が並ぶ一角で久しぶりに中国語を使ってみたが
一部通じ、一部通じないという、なんとも使いものにならない
中国語に自分でもがっかりだ。
そんな下手な中国語に屋台のおっさんが、「台湾人か?」って聞くから
「違う」と答え、「じゃ、韓国人か?」と聞かれ「違う、日本人だ」って
答えると、「台湾人に見える、日本人には見えない」とオッサンはサラリと言う。
ん~確かに今の僕は一般の日本人らしい格好はしていないのかも。


お姉さんがやってる福建蛯麺という屋台のラーメンはムチャクチャ美味かった。
エビの出汁がぎゅぎゅっと凝縮されてる感じで口に入るとそれが広がる。
麺は何故かおすすめは普通の麺と米麺の両方。
これに汁が絡んでちょうどいい。
エビやら玉子も入って3リンギット(80円)。カップラーメンより
安いじゃん。

翌朝はミニバスと言われるワゴン車で国境を越え、タイへ入国である。
実は前日まで知らなかったのだが、タイはビザなしで飛行機で入国した
場合は30日まで、陸路の場合は15日だとさ。めちゃ短い。
もちろんビザなんて持ってない。

さて、僕らはさらにリゾートを求めてタイへ入国する。
いや、現在はそのリゾートにいる。
それは・・・ありがちなプーケットではない。
僕らにきっとプーケットは似合わない。
プーケットまでボートでもバスでも行けるクラビという街にいる。
このクラビという名前も数日前に調べてたらたまたま見つけて
期待できそうだ、と行き当たりばったりで決めたのだ。
僕らはそのクラビという地で現在マッタリとしている。
そして1週間が過ぎた。
やっと色々な事を考える時間ができた。
旅のこと。昔のこと。仕事のこと。働くことについて。これからのこと。
生きることと死ぬことについて。好きなこと。やりたいこと。やらなきゃならないこと。

旅がいいのは、自分とがっぷり四つで向かい合うことができ、
自分の脳味噌内の価値観やジャンルや新旧を整理整頓し直して
まさに次の羅針盤を定められることかな。



定まるのか?僕の羅針盤。 続くっ。


アジアに戻ってきたよ。

インドのマハーバリプラムにリゾート気分を期待してた僕は
すっかりぼっきり折られた気分でマハーバリプラムを後にし
マレーシアのクアラルンプールに飛行機を使ってやってきた。
今回の旅では飛行機を使わず陸路だけで旅をする覚悟で出たのに
既に飛行機に乗ること3回目である。
一回目は理不尽にもロシアでオーバーステイとなり強制出国的にモスクワから
タリンまで、二回目はイランからインドへ、そして今回である。

モスクワの事情は、ここらへん

クアラルンプールに着くと、そこはもう洗練された都会の雰囲気が
漂っていた。
空港の設備やシャトルバス、そしてバスから見える高層ビルの景色や
ショッピングモールに交通網。
インドの都会とは大いに違う。
やはりマレーシアまでやってくるとかなりホッとするのは
街の人の顔立ちが東洋人らしいからか。
西洋人やインド人と違って女性がみな細いからか?
安全に安く肉類や魚介類が食べられるからか?
はたまたどこでも気軽にビールが飲めるからだろうか?
意外にも東京と時差が1時間だからか?

そして街に溢れるのは漢字だ。
さすがに華僑が多く看板などに漢字が多いし中国語が飛び交う。
更にはインドと違って喧騒が怠いのではなく、活気を感じるのだ。
中華鍋を振るリズム、包丁のリズム、炒め物のシャーという響き。これらの音だけ聞いていても活気を感じる。
そして歩くテンポの良さ、蒸し器から上がる派手なスチーム、オバチャンたちの弾ける笑顔。ニンニクやショウガを炒める匂い。あ~アジアだ。

これらの音や絵や匂いですっかり踊ってしまう。

が、貧乏旅行の僕らは資金が乏しいためクアラルンプールも数日、マラッカは日帰りと忙しい。
しかもその数日のさなかにモロッコで知り合った世界一周若夫婦とインドのバラナシ以来の再開を果たした。
とにかく緻密な計画とチャレンジ精神を持つその若夫婦と会うと、なんだか安心できるというか元気をもらえるのだ。
とにかく色々な旅情報を持っていて提供してくれる。
そして、とても爽やかなカップルで応援したくなるのだ。
(ま、今はこの旅で助けられっぱなしだが・・・)
その彼らと夜な夜な飲み食いして回ったのは懐かしい。
そんな彼らの部屋に行く機会があったのだが、その時初めて僕らは
若夫婦もやられたという噂の「南京虫」を目撃した。
その日はなかなか寝付けなかった。

マレーシアでは、クアラルンプールの後は、インドの
マハーバリプラムで体感できなかったリゾート気分を追いかけて
パンコール島というところに行ってみた。
もちろん下調べしていたわけではなく、今回の旅で
初めて知った島である。

この島は、そんなに人気があるわけでもなさそうだが、マレーシアの人にとってはリゾートらしく、西洋人に混じって現地人の旅行者も見られた。
なぜかタクシーはラブワゴンよろしくピンクのワゴン車なのだ。
海水もムチャクチャきれいという程でもなく、遠浅でもない。
が、人が少ないためかなりノンビリとできる環境なのは確かだ。
うるさい物売りや客引きもない。が、猿がたまに出るので注意だ。
僕らが泊まった宿は一泊二人で40リンギット(1000円くらい)で三泊を値切って110リンギットにしてもらった。
各部屋がバンガローのように別建物になっていて、コモンスペースはそのバンガロー群の真ん中に屋根付きであり、ハンモックに寝るとそよ風に揺られて気持ちいい。


庭には、花鳥園でしか見ることが出来ないような鳥が遊びに来る。
マネージャーはドレッドにサングラスという、ダラダラな感じなのだが、かなりの仕事人で、朝は早くから庭掃除をし、シーツなどの洗濯やら夜も遅くまで客対応をしていて好感が持てる兄さんだ。

この旅で色々な宿に滞在し、色々な客と色々なマネージャーやスタッフを見てきたが、こんなスタイルで営業しているのは、楽しそうだし僕もやってみたいと思ったくらいノンビリしている。
都市型の宿の経営は収益はいいかもしれないが、管理はたぶん忙しなくストレスがたまるだろう。リゾート型はシーズンの浮き沈みもあり勘定は難しいかもしれないが、客もノンビリを求めてきているので顧客対応は楽しそうだ。

この島にはバイクを借りて回ると、1時間もかからず全島を回れてしまう。
相方と2ケツして島の道をバイクで飛ばしてみる。
野生の猿に遭遇したり、2m弱のオオトカゲ数匹に遭遇したりしながら島の裏で発見してしまったものは、巨大なゴミ捨て場だった。

もちろん捨て場であって処理しきれていない。
そこに猿やカラスなんかが群がっている。
僕ら観光客が出したゴミが処理しきれないまま、島の裏側に放置されているんだ。目の当たりにしてちょっとテンションが下がってしまった。

インドでは目につくところにたくさんのゴミが散らかっていたが、
ここでは隠された所にゴミがまとめて放置されていた。
きっと僕らの眼に触れないところで、たくさんの自然が壊され、たくさんのゴミが埋没していってるんだろう。
そのゴミ山の一角を見たのに過ぎないんだろう。
当然ながら途上国の方が、技術的にも法整備にしてもゴミ処理の問題は遅れている。未来の人たちが気がついたときには、リゾート地はゴミだらけってことにならないように。
僕らに何ができるんだろうか?リゾート地に行かないことなのか?


僕らはさほどキレイというほどでもない海を諦め山に入り、ヒルに噛まれ何の成果も得られないトレッキングをしてみながら時間をつぶし、次に行こうと決め込んだペナン島を望むのであった。

宿で出会った日本人の噂によると、海はもっとキレイではないらしい・・。




2011年1月17日月曜日

一ヶ月滞在してみたインド

イランのテヘランから飛行機でデリーにやってきたインド。
ニューデリーからタージマハルを見にアグラー、祇園精舎を探しにサラバスティ、ガンガを求めてバラナシ、エロい彫刻を見にカジュラホ、ブッダが悟りを開いた地にブッダガヤ、他のインドと違った都会のコルカタ、南インドのチェンナイと海辺のマハーバリプラム。

どこでも埃っぽくて、いつも糞尿の匂いやドブのヘドロの匂いだらけ。

足元には牛糞の地雷、カラスの空爆、ヤギ糞のクラスター爆弾。
街には野良牛に野良犬。豚にヤギに猿にドブネズミ。
うっとおしい物売りのオッサンやリキシャの勧誘とホテルの勧誘。
普通に10倍以上の値段をふっかけたり、お釣りをわざと少なく返す店員。
毎日がカレーと揚げ物ばかりの食事。
定刻に到着しない電車と乗車率100%をはるかに越えるギューギューの車内。
車内に砂ぼこりが吹き込み、運転の荒いバス。

どう考えてもインドにのめり込む人たちの気が知れない。
理由がわからない。


ま、糞尿にしても、毎日の食事にしても、乗り物にしても
慣れればどうってことないのだが。
カレーは何種類もあるし、店によって味がずいぶん違うしかなり奥深い。
僕は食事に添えられるアチャールという辛い漬物が大好きになった。
また、安いチャパティやパラタなんかも大好きになった。

勧誘は、じっとしている際に声をかけられたら、「シー」と人差し指を
立てると、もう声をかけてこない。ガイドの勧誘には英語がわからないと
言えば、もう勧誘してこない。

道を聞くときは、食べ物屋の店員か道を歩いている若い女性に声をかければ
大概余計なことを言わずに教えてくれる。

旅をしていると、当然ながら旅行者相手の商売人しか出会うことがないので
みんなウソをつくとか、ふっかけてくるとか、インド人の印象が
商売人の印象とイコールになってしまうが、けっこう一般人は
親切だったりする。
切符の買い方を教えてくれたり、通訳をしてくれたり、案内してくれたり。
電車の車内で、後から乗ってきた指定席のない僕らに席を作ってくれたり。

旅行者にとってありがたいのは、何と言っても物価が安いこと。
宿代は二人で一泊300ルピー(600円くらい)も出せば個室に泊まれる。
ご飯はフライドライスは30ルピーくらい。チャパティやパラタなんかは
1枚6ルピーくらいで、付けて食べるカレーが別に付いてきておかわり自由だ。
チャイもだいたいどこも5ルピー。かなり飲んだ。

ちなみに手作りラッシーは美味くて、そこのラッシー以外飲めなくなった。
それでも何故か大好きにはなれない。
こないだ、なんで大好きになれないか、ビールを飲んでて気がついた。
ビールは宿から歩いて30分のところにあり、店の前面は金網が閉じられ
ヒッソリと営業している。その街ではこの店しかないのである。
酒類はその金網越しに販売される。

そこで仕入れすぐに栓を抜き、ビールを煽った。
すると店員が建物の裏に回って飲めという。
インドではあまり表で公然と酒を飲むのが認められていない。
そこで、建物裏に行くとゴミだらけの草むらがあり、数人が腰を下ろして
酒を飲んでいる。
僕は草むらの一番奥に進んだ。すると湿地があり水面が夕暮れ前の
太陽の光を反射していた。

その湿地も残念ながらゴミだらけだった。
その時ビールを飲みながら、河や湖や海や水辺や水の音のするところが
大好きな僕にとって、ゴミだらけの水辺はとても嫌いと感じた。
そして酒好きの僕にとって、酒を飲むのにこんなにこそこそとゴミの
中で飲まなきゃいけないのも、いやだなぁと感じたのだ。
せっかくの昼間のビール、きれいな景色の中で爽快に飲みたいものだ。

インドで思ったのは、「インドはアジアではない。インドはインドでしかないのだ。」


またいつかこのインドにやってくるだろう。きっと変わらないインドに。


2011年1月7日金曜日

クリスマスイブはお寺の宿坊で


珍しく相方がインドにて、「ここに行ってみたい」と言ったのが
サラバスティという村にあるサヘートとマヘートと言われる地域で
平家物語のクダリに出てくる、祇園精舎と沙羅双樹にまつわる場所だ。
お~なんとも可愛い相方の望みではないか。行きましょう。
と調べるが、アグラーからラクナウまで列車で数時間、乗り換え
ゴーンダまで数時間、さらにバスで、さらにリキシャで・・・。
うん~ん遠い。これでは途中で一泊しなければ。
アグラー発夜行で出発し乗り換えを続け翌日の夕方にゴーンだへ。
ここで一泊をせざるを得ない感じだったが、タクシーを飛ばした。
タクシーにはサラバスティの中国寺に向かうようお願いした。
こういう地域のお寺は宿坊を貸してくれるのを知っていたからで
数年前ネパールのルンビニ(釈迦の生誕地)を訪れたとき
宿坊を貸してもらったことがあった。
クリスマスイブの夜7時ごろ到着。すっかり日は暮れている。
中国宿の人達は当たり前のように暖かく迎えてくれた。
ちなみに迎えてくれたのは中国人ではなく現地のインド人である。
電気を引いてないらしく、わざわざ発電機を回してくれ
ベッドにはブランケットを運んでくれ、粗末ながら彼らと
同じ食事を出してもらえた。
食事も終わり、時間はたっぷりあるので、のんびりと
PCに入っているビデオでも見ようかと思っていると
「電気きりま~す」と発電機が終了となってしまった。
停電用に持ってきていたロウソクに火を灯すとクリスマスの
雰囲気が出てきた。
iPhoneでクリスマスソングを流しひとときだけ気分を味わったが
ドアの隙間から吹きこんでくる風で我に帰り、二人とも
シュラフに身を包んでそうそうに寝ることにした。

再びのインド

再びのインド(変わったのか)
インドは3年ほど前の猛暑の頃に来たことがある。
仕事の関係で10日弱しか滞在できなかったが、記憶は鮮明に
残っている。
やはり忘れられないのは名物とも言える空港到着時の客引き。
「フレーンド、リキシャのるかー?」「チープホテルあるよ」と
取り囲まれ腕を捕まれ、荷物に手をかけられる。
とにかくウザイ。
そして野良牛とその糞尿。
ヒンズーでは牛様はシバ神の乗り物なので神聖な生き物なのだ。
どこを歩いても野良牛が闊歩している。(写真は僕の宿の入り口)
既に懐かしいともいえるその思い出を胸に、イランからの飛行機で
客引きでうるさいニューデリーの空港に到着した。
外を様子を伺いながらEXITに向かう。
すると、素通り。ん?全然客引きがない。
どうしたんだろうか?客引きが全くないと、ちょっぴり寂しいではないか。
あまりの客引きの酷さに何か改正されたのだろうか?
と思ったが、たぶん、たぶん、前回の空港と違う空港だったのではないか?
そう言えば、以前より新しいようなキレイなような・・・。
ま、確かめてないのでどうだかわからずじまいだが。

相変わらずなのは、やはり野良牛君だ。そして格下の野良犬も
相変わらず多い。残念ながら見つからないのが野良電波である。
インドではさすがにWiFiは見つからない。
インドでは野良牛や野良犬意外にもけっこう動物があちこちに見られる。
例えばドブネズミ。駅構内や線路付近にも忙しそうにしている。
それに猿。
日本の動物園で見るよりはるかに見ていて飽きない。
彼らは自由を謳歌している。僕が見ていて面白かったのは
建築現場で人間が手作業で作っている建築物を手作業で壊していく
猿の行動だ。
ラクダもぶらぶらしている。
ちょっと郊外に行くとイタチやインコやリスもいる。
インドで今回気がついたのは、喫煙者が少なくなったような。
地元の食堂ですら禁煙の貼り紙を貼っていたりする。
見た感じ禁煙している人が少なく感じたのだが。
ヒンズー教ではタバコはOKだが酒はご法度。
でも、法律では禁じられて無く、製造もしてるし酒屋も存在する。
酒屋は高い権利金を払わないと営業できないからか
街の中にあまり見かけない。
が、ニューデリーの酒屋はとにかく儲かっているはず。
次々に客が押し寄せ、カウンターの中の店員はボンボンと
注文を受けたウィスキーやらワインやらのボトルをカウンターに投げる。
客はそそくさと帰る。
ここでやはり酒は隠してかえるのが不思議。
ちなみに客はインド人しか見受けられなかったが・・・。
これだけ客が来るなら権利金を支払っても儲かるのは想像できる。
鉄道も変わった。以前は外国人専用チケット予約センターに行く通路には
必ず「センターは閉まってる」とか「今日は休みだ」とかとうせんぼする
輩がいたりしたが、一掃されてた。
さらには以前は電車が遅れているのか、何番フォームに到着するのか
全然わからなかったのが、なんと電光掲示板が設置されているではないか。
ま、2時間3時間遅れるのは、相変わらずなのだが。
インドで食事というと、やはり手でカレーと米を混ぜて食べる。
しかし、地元食堂でもみんなスプーンで食べてる。
もちろん、手で食べてる人もいるのだが、スプーンで食べてる人が多い。
以前は手で食べるのが当たり前だったような気がするのだが・・・。

インドというと最先端の医療とコンピューターテクノロジー。
が、僕が接するコンピューターテクノロジーはなんとも古めかしい。
列車のチケット予約センターでは決まって懐かしいDOSの画面。ノスタルジー。
しかも、その情報はネットワークされていないのか、同じチケットを
申し込むのに対し、ある駅では予約できず、「他の駅に行って
予約しろ」と言われ渋々別の駅に買いにいくこともある。
もちろんその別の駅では同じDOS画面で列車の座席の満空状態を確認し
ブッキングするという同じ方法なのだが。
バラナシの駅で面白かったのが、予約センターに行くと
やはりそこも同様のDOS画面なのだが、コンピューターを目の前にして
検索というものをしてくれない。
例えば「12月28日の午後にカジュラホに行くチケットが欲しい。」と
ブッキングシートに書きこんで渡すのだが、これでは相手にもしてくれない。
乗車する列車が確定したものしか予約してくれないのだ。
列車があるかどうかすら教えてくれない。調べてくれない。
そしてインフォメーションに行くように高圧的に言われるだけだ。
インフォメーションに行くと面白い。
そこには一切コンピューターどころか電子機器がない。
オッサン一人と裏紙を使ったメモ用紙を置いたテーブルだけだ。
だがこのオッサンが凄い。
「いつ、どこに行きたいんだ?」12月28日の午後に
カジュラホに行きたいと告げるとメモ用紙に
いくつかの発車時刻と列車番号を書込み乗車時間まで書きこむ。
どうやら全部記憶しているらしい。
そのメモを持って先ほどの使えないオッサンの所に戻ると
やっと予約してくれるという少々疲れるシステムになっている。
インドのコンピューターテクノロジーは、インフォメーションの
オッサンの検索能力にはかなわないらしい。

とにかくワンダーランドインドの始まりだ。



旅人の僕らは親善大使

お祭りのせいか、ただの興味本位か、とにかく声をかけられたり
手を振られたり、手を合わせられたりと親善大使になったかのように
僕らは忙しい。
イランでは必ずといっていいほど、中国人か?と聞かれる。
その度にニッコリ笑って日本人だというと、握手してきたりする。
それは一般人だけに限ったことではない。警察官や救急隊員もだ。
確かにツーリストが少ない上に東洋人も見かけはしなかった。
ツーリスト全般に親切なのか、東洋人に親切なのか、日本人に
親切なのか、はたまた祭りの最中だから親切なのかは皆目わからない。

祭りであちこちでチャイや現地の料理など炊き出しをタダで配っている。
もちろん場所によっては行列が出来るほどで彼らはちゃんと
男子の列、女子の列と規律よく行列を守って並んでいる。
その行列を見ては、何を配っているんだろうと配布先をのぞきにいく。
すると、僕らを見つけた人たちと配っている人がこっちに来いと手招き。
行かなくても、なんと行列を無視してバケツリレーで僕らのところに
食べ物が回ってくるというシステムになっている。
(↑ 「はい、食べてね~」って感じで他人のバイクのシートに勝手に置かれてしまうので食べるしかない)
毎日タダで食べたのが、モスクめしだ!。
モスクが炊き出しの弁当を作ってタダで渡すもので、
モスクによって弁当の内容が違う。

基本的にご飯が主体なのだが、そのご飯がサフランライスだったり
お焦げがプラスされたり(イランではお焦げはゲスト用らしい)、
肉が入ってたり、レンズ豆が入ってたり、アーモンド片やピスタチオ片が
入ってたり、バリエーションは色々。
色もカラフルだ。
人とすれ違うと、持って行けと弁当を手渡される。
モスクの前を通るとまた渡される。
あっという間に夜ご飯と翌朝のごはんが調達できてしまう。
断っても手渡されてしまうので、食べきれなくなってしまう。
これにはさすがにたまらなくなった僕らは、配布所やモスクの前は
なるべく通らず、通るときも目を合わせずに足早に通り過ぎたりした。
それでも追いかけてきて渡されることもあったのだが。

ご飯やチャイだけでなく、お菓子やジュースまで配られるのだ。
しかもビニールに入ったジュースの容器にストローを刺して飲む
タイプのジュースに、不器用にもストローを刺せず何度も試行する僕を
見かねて、近くにいた祭りのための救急隊員が救急車から走りよってきて
僕のジュースにストローを刺してくれた。
点滴の袋に針を刺すかのように鮮やかな手つきだった。
こんなことで救急隊員を出動させてしまう僕は親善大使失格である。


てなわけで、とにかくツーリストか東洋人か日本人はVIP扱いなのである。

熱狂イラン

僕らは昨夜の夜行バスで、北のタブリーズからやってきた。
到着したのは朝の6時前で空気は張り詰めており
遠くには雪を被った山々の頂きが見えた。
僕らは寒さのためなかなかバスターミナルから出ることができなかったが
意を決してテヘランの中心部であるエマーム・ホメイニー広場周辺で
宿を探し始めた。
宿を決め、チェックインして荷物を下ろすと、とにかく街を見たくなった。
街は祝日のため街は静かに落ち着いていた。
その静寂さを破ったのは、太鼓のリズムと人々の合唱だった。

このフェスティバルとは、シーア派最重要のお祭りで
エマーム・ホセインの殉教をシーア派の人々が体を自ら痛めつけることで
追体験するということらしい。

初日はアースーターといい、翌日の最大のお祭りはアーシューラーという。
街のあちこちで取っ手のついた鎖で
自らの体を打ちのめしながら唄を歌いながら行進する。
女性たちはその後ろについて行進する。
大人も子供の老いも若きもである。
そして、牛や羊が道端で屠られる。
僕はその光景にビックリした。(エグイので写真は割愛)
ビックリしたのは、別に牛や羊が生贄のために殺されたからではない。
吹出し道路を流れる血が見たことない赤色で、その赤がキレイすぎる。
と思って魅せられている自分を発見してビックリしたのだ。
そしてビックリは他にもある。
僕は、牛の首を切り落とすシーンを写真に収めようとしたけど
ただそれだけでは、面白い絵にはならないと思って
見物に来た子供達が恐れ慄き驚愕する絵をはめ込もうと思って
カメラを構えていざという態勢で待っていた。
が、いざ!となったときに子供たちは驚愕するどころか
笑って見ているし、その姿をデジカメで撮っている女の子までいて
その姿にビックリしてしまった。

その後、さらに僕の価値観が壊されるのを楽しむかのような
光景が目の前に広がる。
最初は牛の解体だった。
首を落とされた牛はまだ生き物が死んだというだけの
塊に過ぎなかった。
その牛という生き物が解体され始めた。
腹の皮をはぐ作業から始まったのだが、調理で鶏肉の皮を剥がしていく
作業と似ていて、皮と肉の間に刃を通していく。
少しずつ牛の表皮である毛皮が剥がれていく。
すると見たことのある牛肉のまだ部位が分かれていない状態に
近づいていく。
その姿を見て、「あ、今まさに生き物が食べ物に変わっていくところ
なんだ!」と理屈では解っているのに、今さらご丁寧に
解説してもらったような感じだった。
この旅で市場をよくフラつくと、皮を剥がれた羊やヤギの生首やら
鶏の頭のストリップ。さらには足だけとか、耳だけとか
見た目にかなりグロい姿を見つつ、あぁ生き物と食べ物に感謝だなぁ、
なんて思ったりしてた。
また、日本は市場が遠ざかり、食品具材は商品としてスーパーで
整然とならんだものを買ってくるから、生き物が食べ物であるという
意識が低い、まるで工業製品かのようで、子供は生き物や食べ物に
感謝するなんてことは希薄になるだろうなぁと思ったり。
色々考えさせられたものだが、そんなことを考えてた僕もガツンと
やられた感じだ。

そして目を奪われたのは、羊の解体だった。
羊毛で覆われた羊の皮剥ぎはどぎつかった。
なんと足の辺りに切り込みを入れると、そこに自転車の空気入れの
ホースの先っぽの針を挿し込み、普通に空気を入れ始めたのだ。
みるみるうちに羊の体はパンパンに膨らんで行く。
目を奪われてポカーンと口を開けてみている僕に向かって
解体をしているオッサンの一人が「テクノロジー」と叫んだ。
僕は我に帰って大笑いをしてしまった。
空気で膨らんだオスのアソコを指さして写真を撮れとか言ってくる。
当たり前だが彼らには別に感傷的なことは全くない。

そんな昔の吉野家の店内よりも殺伐とした光景の後に
炊き出しが振舞われる。
確かに牛肉片が入っていたが、ヤツの肉片なんだろうかと思いながら
食べる弁当はなんだか切ない味がした。

その間、相方は仲良くなった現地の若い女の子に連れられて
モスクでチャイを飲み、弁当を食べ、興味津々のイラン人女性たちに
囲まれて質問攻めにあっていたらしい。

イラン入り

イランという国のイメージは、やはり砂漠が多くて暑い気候で
反米で宗教に熱心で厳格なイメージ。それくらいのイメージしかなかった。

実は砂漠が多くて暑いというイメージは数年前に既に払拭されていた。
神戸のとある大学に通うイラン人の実家がテヘランで、彼は
砂漠を見たこともないし、暑くもないという話を聞いていたからだ。
ちなみにその頃の彼の悩みは、税務署対策であった。
日本で中古の医療機器を仕入れてはイランに輸出しており儲けすぎていたらしい。その傍ら日本からは月々11万円もらって授業を受けていたのである。

イランはトルコから陸路で入った。
イランに入るとまず気になったのは、人々の視線だった。
とにかく見つめられる。特に子供たちは、その好奇心を包み隠さず
直視してくる。恐らく東洋人など見たことがないのだろう。
きっと「この平べったい顔はどうしたんだろう?」とか
「新種の猿だろうか?あ、猿が笑った。」とか思ってるのかもしれない。
学生くらいの若い子で英語のできる人たちは気軽に声をかけてきた。
「何か手伝おうか?」と道案内をしてくれたり、バス乗り場を教えてくれ
一緒に乗ってくれたり。何度か市内バスに乗ったのだが
バスの運賃を支払ってくれたり、荷物を運んでくれたり。
(市バス会社の人も「ツーリスト、ウェルカム」と言ってタダで乗せてくれた。)
またバスチケットのオフィスを一緒に歩いて探してくれる若者が、
結局見つからず、わざわざ知り合いに電話して聞いてくれたりまでして
くれた。

テヘランでは日本語を喋れる人がたまに声をかけてくる。
バブル前後に日本に出稼ぎしに来てた人たちで、日本のことを
よく知っている。かなり日本語は忘れたらしいがたまにやってくる
日本人旅行者を捕まえては日本語を忘れないようにしているらしい。

けっこう発展途上国に行って、英語が喋れる現地人は怪しかったりし
特に日本語を喋れる日本人は要注意だったりするが、イランに限っては
その注意は必要無さそうだ。何より彼らは欲というものがあるのだろうか?
ま、それくらいお人好しだらけだ。


イランではホルモンが食べれると聞いていたので、ホルモン屋に
行ってみた。
テッチャンとレバーと心臓を頼んで串焼きにしてもらった。
なかなかイケル。


厳格なイメージのイランだが、どこまで厳格なのかがよく判らない。
イランは酒は持ち込みも販売も飲酒も禁止。ポルノも持ち込み禁止。
どうやら水着程度でもダメらしい。
ちなみに国境での荷物検査の際、リュックやショルダーバッグは
開封して検査されたが、全てのチェックをするわけでなく
怪しそうなものだけ、チェックしたり、聞かれたりしただけだった。
そして、男女は差別というよりどこでも区別されている。
例えば、モスクの入り口は別々。部屋も別々。
何かの行列も別々。そしてバスの車内も前半分と後ろ半分で
区切られている。
厳格と言えば厳格なのだが。。。

さて、こんなイランでダラダラの僕ら二人はどうなる?


中東の国境越え情報(2011年11月から12月頃)

中東の国境越え情報
国境越えの情報を記録したので、興味のある方は参考にしてください。


★国境越えの厳しい前情報
トルコからシリアへの国境を越えるのは、最近日本人に限って
難しいという話は聞いたことがあった。
噂ではイミグレーションでパスポートを渡すときに$10札を
挟むと、通されるなんて噂も聞いていた。

これは有名だがイスラエルに入国しパスポートにイスラエルの
スタンプが押印されていると、イスラエルと国交のないシリアや
レバノンには入国できず拒否される話は聞いていた。
この件についてはガイドブックにも書いてあるとおり、イミグレーションで
パスポートチェックの際に別紙に押印してもらうようにお願いすると
そのようにしてもらえると聞いていた。

さらにはトルコからシリア、シリアからヨルダン、そしてシリアに
再入国の場合は、イスラエルに寄った可能性が高いという判断から
さらに審査が厳しいという話も聞いた。

イランのビザ取得は困難らしく、入国もアライバルビザ頼みで
イランの空港に到着した日本人が、入国できずに帰国させられた
話も聞いていた。

それでも、やってみよう!ということで
トルコからシリア、シリアからヨルダン、ヨルダンからイスラエル、
イスラエルからヨルダン、ヨルダンからシリア、シリアからトルコ、
そしてイランへという、前情報だけだととても無理そうな
陸路国境越えに挑んでみた。

★トルコからシリアへ(2010年11月28日)
11月18日、イスタンブールの日本人宿ツリーオブライフで旅人から
得た情報によると、現在トルコからシリアへの入国はかなり厳しく
約50%が跳ね返されたらしい。また、$10札を挟む賄賂も
$20でも笑われて突き返されたという話を聞き、不安が募る。
しかし、11月24日パムッカレで聞いた情報によると、ここ数日は
90%の日本人が通過しているという好情報を入手。
11月27日アンタクヤに入り、ダマスカスまでのバスチケット(15リラ)
を購入し一泊する。
翌日9:30のバスで出発。ボーダー前で渋滞。
出国は難なく10:50通過。
入国はビザ代$28を支払う。入国カードを記入しスタンプされる。
質問は「どの街に滞在予定か」「滞在予定の日数」「仕事は何か」
「出国はどの国へか」だけで終了。
そのまま正直に答えた。
簡単な荷物検査を受け12:00に入国。
そのまま入国のバスのままダマスカスに16:30頃到着。


★シリアからヨルダンへ(2010年12月1日)
14:30ダマスカスからバスに乗りボーダーへ向かう(500SP)。
ボーダーに着くとバスの乗務員がある程度手続きの案内をしてくれる。
別の小さな建物で出国税(500SP)を支払い印紙をもらい
ツーリスト用窓口に並び、パスポートチェックを受ける。
再びバスに乗り出国し、ヨルダン側のボーダーでも
バスの乗務員が案内してくれた。
イミグレーションでは「滞在日数」や「滞在ホテル」などいくつかの
質問に答える。
あとはそのままバスで入国。アンマン到着19:30。


★ヨルダンからイスラエルへ(2010年12月2日)
ヨルダンはアンマンのマンスールホテルに宿泊し、朝6:30頃に宿を
タクシーをシェアして出発した。
バスは1時間ほどで到着し、8時から開くイミグレーションを待った。
出国手続きは①パスポートを受付に渡し②出国税(8JD)を払い
③スタンプを押印してもらう、の流れ。
②の出国税は当日または昨日にヨルダンに入国した場合は免除。
また③のスタンプはお願いしなくても別紙にスタンプされた。
(念のため「NO STANP」と申し出た。もし押されるとシリアは入国不可。)
ボーダー通過用のバスが9:00に出発し、そのままイスラエル側の
ボーダーへ。バス代は3JD。バスを一度降りて荷物検査。
10:30、入国審査場で大型荷物を預ける。続いてパスポートに
シールを貼付される。(このシールは出国時にキレイに剥がさないといけない。)
そして、10:45からイミグレーションで質問を受ける。
この際に必ず最初に「NO STANP」と言わないとダメ。
質問内容は「NO STANPの理由」「滞在先ホテル」「滞在日数」
「シリアでの滞在日数」「他都市への訪問予定」
「イスラエルに友達はいるか」
アンサーは、「シリアに戻ると正直に」「決まってなかったので
日本人がよく泊まる安ホテル」以下正直に答えたが、友達がいないと
答えると何故か怪訝な顔をされた。
11:00にはイミグレーションでスタンプを別紙にもらい通過。
わずか15分で通過。
同行した日本人男性は、シリアやレバノンの他、パキスタンの
スタンプもあったせいか、1時間以上通過できず、イスラエルでの
全日程などを書類に書かされたそう。
12:20出口そばの乗合バスで旧市街前(ダマスカス門前)まで
(42シュケル)。
当日別の日本人が「NO STANP」と言っても、スタンプされたという話を
数人から聞いた。いくら抗議しても全く応じてもらえなかったらしい。


★イスラエルからヨルダンへ(2010年12月4日)
10:10オリーブ山のイブラヒム・ピース・ハウスより5人でタクシーを
シェアしてボーダーへ向かう(一人50シュケル)。10:40頃着。
土曜と日曜はイスラエルからヨルダンに向かうボーダーが早く閉まる
という情報を得て、午前中に出発した。
大型荷物を建物に入る前に預ける。出国税は高く167.5シュケル支払い、
イミグレーションへ進む。イミグレーションでは「NO STANP」を
お願いする。5人のうち最初の一人がお願いすると「なぜか?」と
聞かれたが、受け答えできずにいると「NO STANP」で通してくれた。
全員「NO STANP」で通過。
ボーダー通過用のバス(3JD)でヨルダン側のボーダーに到着。
荷物を受け取り、イミグレーションでパスポートを渡しチェックのみ。
スタンプは押されず。(ここでも念のため「NO STANP」とお願いする。)
タクシーを5人でシェアしてアンマンのマンスールホテルへ(4JD)。
パスポートに裏表紙に貼られたイスラエルのシールを丁寧に剥がす。
これ大事。

★ヨルダンからシリアへ(2010年12月6日)
8:30頃マンスールホテルを出発し、セルビス(乗合タクシー)
乗り場まで徒歩。
9:15に4人を乗せたダマスカス行セルビスが出発。
ダマスカス行のバスもあったが、外国人はビザ申請で揉めたり
時間がかかることを理由に乗車を拒否されたり、ボーダーで
置いて行かれることがあるというので、セルビスにした。
料金は乗り込む前に交渉。セルビスのオフィスで前払い(10JD)。
パスポートのチェックがされる。
日本人は中国人や韓国人よりも通過しやすいらしく、歓迎された。
ボーダーでは、出国のイミグレーションではパスポートチェックされ
スタンプされるだけ。何故か出国税が免除だった。
入国は車内で簡単な荷物検査をされ、イミグレーションへ。
入国カードを記入し、パスポートと一緒に入国カードを提出し
トランジットビザを申請。
パスポートはくまなくチェックされた(恐らくイスラエルのスタンプが
ないか確認していたと思われる)
質問は特になかったが、入国カードにセルビスの車番を記入するように
指示された。
イミグレーションの直ぐ後ろのビザ代支払いブースにてトランジットビザ
$8を支払い再度イミグレーションにて入国審査完了。
タクシーで荷物検査を受け、入国。
13:25、ダマスカス到着。
当日さらに乗り継ぎアレッポまで足を延ばす。20:00到着。


★シリアからトルコへ(2010年12月7日)
アレッポからバスで国境を越えるつもりだったが、バスターミナルに
行くと、全くバスはなく聞くと20日前に移転したとのこと。
今から行ってもバスは少なくミニバスしかないと言われる。
仕方なくセルビスで国境を越えることに(500SP)。
10:00に出発し11:00頃にボーダー到着。
トランジットビザは出国税が免除になると聞いていたのだが
出国税の支払いをさせられた($13)。
入国時に記入した入国カードとパスポートを提出し出国完了。
トルコの入国は、簡単な荷物検査とパスポートチェックと
再度車内の荷物検査を終え12:00に出国。アンタキアに13:00に到着。


★トルコでのイランビザ取得(2010年12月13日)
トルコのトラブゾンにて月曜日朝9時前にイラン領事館へ出向く。
申請書を渡され必要事項を記入し、写真を1枚貼付。パスポートを
預けると、ビザ代振込先が書かれた用紙をもらう。
(ガイドブックには2枚とあるが、1枚で済んでしまった)
そして当日の15時に再度来るようにと。
指定の銀行の口座に50ユーロを振込む。
ドルでもリラでもダメ。ただ、銀行にリラを持ち込んで
領事館でもらった紙を渡せば、リラをユーロに両替して振込処理を
してくれる。その際その紙片にブロック体で名前を書きこんでおくと
スムーズに手続きが進む。
その振込控えを持参し、再度15時に領事館に行くと既にビザの
貼ってあるパスポートが手渡された。


★トルコからイランへ(2010年12月13日)
19:30トラブゾン発ドゥバヤズット行きのバスに乗る(45TL)。
到着は9時間後の予定だったが、雪道が一部あったためか到着は5:30。
ドゥバヤズットからボーダーのギュルブラックまでタクシーを
4人でシェア(5TL)。6:30頃到着。
ボーダーは徒歩で渡り車も使うイミグレーションでチェックを受け通過。
通過するとすぐに大きな鉄柵扉があるので開くと、そこがイランの
イミグレーションの入り口。
まずは建物に入る前に、兵士か警察によるパスポートのチェックを受け
建物に案内される。
「tourist infomation」と表記されるボックスに案内される。
そこの係官にパスポートを預け、いくつかの質問を受ける。
「滞在日数」「訪問都市」「出国後の行き先」「職業」「年齢」など。
続いてその係官に案内され次のボックス前で待たされる。
ゲートを通されると荷物検査場にて荷物検査。
聞いていたとおり、リュックは開封を指示される。もちろん他の
リュックやショルダーバッグやウェストポーチなど開かさせられる。
続いて、別室に案内され10本指の指紋の採取をされる。
それが終わると晴れて入国。
8:30イミグレーションの建物の外からバーザルガーンまで歩けるのに
うっかり目の前に停まってたタクシーに乗ってしまった(10000RIS)。
門を出たところから更にタクシーでマークーへ(50000RIS)。
10:20頃マークー到着。(時差修正)

★国境は、いらない
旅人にとって「この世に要らない物=国境」なんてカッコいいセリフが
あったりするけど、実際ヨーロッパを周遊している際に確かに楽だった。
というよりも、国境を感じることがなかったというのが実感だ。
バスや電車やフェリーで国を通過したり渡ってもイミグレーションが
なく、パスポートチェックすらない。
僕らはロシア経由でエストニアから北欧を回ってドイツに入った。
その後東欧を除くヨーロッパの国々を周りイギリスに渡る際に初めて
パスポートチェックを受けてスタンプを押された。
それまではスタンプの押印がなかったので僕らのユーロの旅は
パスポートの記録上ここから始まったことになる。
それくらい国境というものを感じさせないのがヨーロッパだった。
旅は東に流れ、旧ユーゴスラビア地域に入ると、電車の車内や
バスの車内でパスポートチェックをされるようになった。
やっと国境を越える実感が湧くようになる地域にやって来たわけだ。
それが、中東に入るとそれはもうスリルとなって快感を感じていた
かもしれない。
あの国境を渡る、しかも陸路で渡る、ちょっとヒヤヒヤするスリルは
ちょっと癖になるかもしれない。
入国したとき、なんだか変な達成感のようなものが沸き上がってくるのが
なんだか可笑しい。そして清々しい気分になるのだ。

国境って旅人には必要かもしれん。(でも、ビザ代は安くなってほしい・・・。)