2010年8月30日月曜日

バス & フェリー でダブリンからモン・サン・ミシェル

バス & フェリー でダブリンからモン・サン・ミシェル

ダブリンからのバスは20時5分定刻で出発しすぐにダブリン港のフェリーに
乗り込んだ。フェリーはイギリスに到着するとまたバスがロンドンを目指す。
本当はマンチェスターやリバプールにも寄りたかったのだが、うっかり
予約をミスってしまい、旅路を急ぐことにした。
ミスというのも、ロンドンとダブリン間のバス往復チケットが二人でたったの120ユーロなのだ。一人7000円くらいだ。
これを知って、飛びついてネットで予約してしまった。

バスはロンドンのヴィクトリアに到着したので、そのバスターミナルから
ポーツマスまでのチケットを買った。
これも二人で24ポンドと安かったので即決だった。
どうやら最近就航した路線らしく、ネットでは予約できなかった。

そしてポーツマス港からフランスのサン・マロ港まで夜行のフェリーで
移動というハードスケジュールを決行した。
この旅でフェリーには何度となく乗船し、船泊もしているが今回
チケットに書いてあるのは「リクライニングシート」とあるではないか。
フェリーなのにベッドでもない。本当にイスだった。
空いている船内では、イスで寝にくい人たちが、床でごろ寝しているため
朝方起きてトイレに行こうと思ったが、足の踏み場がなく2度寝した。
サン・マロに到着するとなんだか清々しい気分になった。
港町と旧市街。

ダブリンもポーツマスもほとんど東洋人を見ることがなかった。
このサン・マロも東洋人はほとんど見ることがない。

何故かこの週から旅の最中に子供たちが異常繁殖している。
というか家族連れが凄い増えている。
夜行バスでは夜泣きが響き連日車泊や船泊をしている老体には響く。

その体にムチを入れるかのように、バスの旅は続く。
サン・マロの次はモン・サン・ミシェルの最寄の街ポントルソンまで
バスで移動だ。わずか2時間だが、バス代も3ユーロほどとバカ安。

やはり貧乏旅行にはバスが強い味方である。

ダブリンの天気と庶民の行動は理解しがたい

ダブリンの天気と庶民の行動は理解しがたい

ダブリンの天気は毎日「曇り時々雨または晴れ」みたいな感じで
いつも空はどんより、あとは気紛れな感じでよく変わる。
ギネスビールのストアハウスが唯一の観光地みたいなダブリンは
どこも無料の国立系の博物館と美術館を毎日めぐって後にした。

ダブリンの人たちは、イギリス人とは違って対応がフレンドリーで
気性も明るく感じられた。
安宿のスタッフは、僕たちにいくら説明しても通じない英語をあきらめて
ノートパソコンを持ち出し、グーグル翻訳を使って説明までしてくれた。
また、スーパーマーケットで買い物していると、「ジャパン?ジャパン?」
と「ジャパン」をピンポイントで聞いてきた。
「そうだ」と答えると嬉しそうに
「ハルキムラカミハルキムラカミ」と念仏のように話しかけてくる。
「あ~村上春樹か~」というと、うれしそうに「イエスイエス」といって
嬉しそうに立ち去っていったおじさん。いまだに謎だ。

番外だが、宿でテレビばかり見ている初老のおじさん。
僕は勝手に彼を「テレビ番長」と名付けた。
彼は宿のコモンルームにあるテレビをこよなく愛しており
コモンルームに入り浸っては、テレビのリモコンを手放さず
テレビに一番近い席を占拠し、見たくない人聞きたくない人にも
十分聞こえるくらいの大音量でテレビの存在感をアピールする。
ある時、僕らはコモンルームのテレビに一番近い席でネットをしていた。
今までいなかったテレビ番長が現れ、即座にテレビリモコンを奪取し
テレビを付け、ボリュームを上げた。
僕らは気にせずパソコンにかじりついていると、テレビ番長がすぐ横に座り
しばらくすると離れていく。すると何やら臭い。
また近づいてきては離れていく。するとまた臭い。
どうやら屁をこいて、匂いで自分の席を取り返そうという作戦らしい。
とても可愛いおじさんである。
もちろん僕らが席を変えたらすぐにテレビ番長は定位置についたのは
言うまでもない。


ダブリンは、今までになくファンキーな街だった。
浮浪者も多いのだが、最初に目にしたのは酒屋からいきなりダッシュする
浮浪者とそれを追いかける警備員だった。
さらには、教会の隣の公園と奥の林の鉄柵でしゃがみ込んで襟を立てて
注射器で何やらしている兄さんや、どう見ても少年達が瓶ビールを
ラッパ飲みして奇声を上げていたり。

とにかく理解しがたい方たちなのである。


2010年8月27日金曜日

8月15日はとても平和な日だった

8月15日はとても平和な日だった

8月15日というと、日本人にとっては少し重たい感じのする日だ。
終戦記念日。いや降伏記念日と言っていいのかもしれない。
日独伊以外の国々の人々にとっては、戦勝記念日だったり
抗日記念日だったりして、同じ日なのに捉え方は真逆だ。
敗戦国とはいえ、敗けたことを恥じるよりも
他国を軍事力で征服して、その民族あるいは文化を傷つけたことの方が
後ろめたい気持ちが強い。


今年の8月15日。僕たちはロンドンの安宿にいた。
翌日はチェックアウトの日。
10ベッドある部屋に日本人は僕たち二人。
他には台湾人女子学生二人と韓国人学生とその先生が合計6人で
いわゆる戦勝国で満室だった。
今まで3日間共同生活を送っているが、せいぜい挨拶程度で
コミュニケーションは全くとれていない。

夜の10時過ぎ、韓国人数人を除く全員が部屋で、寝るまでの時間を
各々過ごしていた。

僕のとなりのベッドの女の子がその向こうのベッドの台湾人に話しかけた。
それは他愛のないことを中国語で話しかけたのだ。
例えば挨拶や返事とか。

その韓国人はお世辞にも中国語も英語も上手くなく、それがかえってみんなの笑いを誘い、
部屋全体の空気を暖めた。
その韓国の女子学生がそれでも笑いながら知ってる限りの中国語を並べる。
台湾人女子学生も笑いながらそれに答える。

台湾人女子学生が今度はこっちの日本人である僕たちに振ってくる。
僕たちも答える。すると片言の日本語を喋れる韓国人の男子学生が寄ってくる。
日本のアニメの話や韓国のエンターテーメントの話や台湾のミュージシャンの話に飛び火してすっかり盛り上がった。

さらには日本で恋人を呼ぶ時、どうやって呼ぶのか?とか、韓国では「オッパー」はお兄さんなのか、彼氏なのか?など極東コミュニケーションで盛り上がった。

ちなみに、韓国人の男子学生はアニメで日本語を勉強したらしく、かなりナチュラルな日本語を知っていた。またアニメだけでなく日本の小説も好きらしく、僕が読んだことがない最近流行りの作家の名前や作品も上げていた。(もちろん「オタク」とか「萌え」とかの語録は知っていた)
またドラマや映画も知っており、少し驚かせられた。
こちらがあまりにもアジアのエンターテーメントに疎いのが、更には英語力の足りなさが、ちょっとコミュニケーションを盛り上げられない結果となった。

いつまでも、こんな平和なアジアが続きますように。
その場に中国人がいなかったことが残念だが。


2010年8月18日水曜日

安宿での生活

安宿での生活
安宿の生活は慣れてしまえばどってことなく、快適ではあるが快適でない場合も多々ある。
1泊から4泊程度で次々に街を移り、宿を変えていく生活をしていると、その宿に慣れたと思うと次に移動だったりして慌ただしい。

安宿はホテル以上にその宿ごとに特徴があるといえる。
例えばシャワーなんかも、宿全員共同の場合と各部屋の中にあってその部屋の人間だけがシェアするようになっていたりと。またシャワールームとなって独立してる場合とトイレと一緒の場所も。なんといってもシャワーで気をつけないといけないのは排水具合だ。まだヨーロッパ圏内なのでほどほどに良いが、アジアに入るととたんに悪いので下手すると逆流してくるので気分が悪い。
僕は髪を短髪にしたので、頭から足の先まで石鹸1個で洗い上げる。
洗濯は僕はシャワーを浴びたあとにすぐ洗面所で石鹸をこすりつけて洗い絞りベッドの脇に干す。
トイレも今のところちゃんと流れている。小さなドミトリーだとトレイの数が宿泊客数に対して少なすぎて、朝などはみんな小刻みに足踏したりするはめになる。
キッチンと冷蔵庫の攻防が一番大変かもしれない。
コンロ、フライパン、鍋、皿などの数が限られているからだ。
キッチンがある宿ではたいがいこの手の道具が揃っているのだが、ちゃんと洗っているとは限らない(たいがい汚れが残ってる)ので、料理の最初は道具や食器洗いから始まる。
料理はほとんどパスタ。しかもペンネ。スープを作ってペンネを入れたり、パスタソースを買ってきてソーセージや野菜を炒めて絡めて食べたり。
今のところペンネが一番使いやすし持ち歩きやすいし腹持ちが良いし、安い。ま、かなり飽きているのだが。
かといって日本食が恋しいなんてこともない。
その時々の共同生活者とは挨拶は欠かさない。部屋で初顔合わせ時は「ハーイ」とか「ハロー」とか声を掛け合う。これはたぶん挨拶という行為というよりも一種のセキュリティ検査なのではないかと思っている。気難しい人間ではないか?非常識な人間ではないか?などを挨拶で感じ取っているのではないかと思う。
あまりに粗暴な共同生活者も面倒だが神経質な共同生活者が同じ部屋にいると気を使う。若い子なんかは深夜に帰ってきて昼ごろまで寝ている場合が多く、僕らは年寄り臭く早寝早起きを励行しているので、朝にガサガサするとたまに舌打ちが聞こえてきたりするからだ。
どいつもこいつも身の回りの整理整頓なんかはしていない。それは男女関係なくで、若いお姉ちゃんのブラやパンツが普通に眼につくところに脱ぎ捨ててあったりする。

ちなみに今までの共同生活者で挨拶程度を交わした国の人々は
アメリカ、ハンガリー、スペイン、ペルー、フランス、ポルトガル、中国、香港、台湾、韓国、デンマーク、イギリスそして日本。
同じ安宿なのに設備だけでなく、雰囲気が全然違ったりする。
それは経営者の考え方の違いなのではないかと、よく感じる。
ウェルカムな態度がとてもよくわかる宿もあれば、とにかくセコいと感じる宿もあるし、まったくサービス精神を感じないスタッフの対応にがっかりする宿もある。
ま、まだまだこんな生活が続く。


旅長ければ恥多し(パリからロンドンへバス移動)

旅長ければ恥多し(パリからロンドンへバス移動)

この数カ月、バスなどに乗ると右車線だったのが、とうとう左車線になっていた。
乗っていたバスはフェリーに乗ってドーバー海峡を越えると思っていたのが、電車に乗り込みトンネルでドーバー海峡を越えてイギリスへと運ばれてきた。

今回の旅でバスでの移動は3回目。最初はストックホルムからオスロ。2回目はオスロからコペンハーゲン。運行はスウェバスだった。
スウェバスはチェックインがなく、チケットさえあればそのままバスに乗り込めた。

しかし今回の運行はユーロライン。
乗り場に行くとチェックインが必要だった。(スウェバスでは不要)
チェックインの窓口は発車30分前にして、行列ができておりとても間に合わなそうな状況。

そこでチェックイン窓口ではなく、インフォメーション窓口に並んだ。
窓口の恐らくペルシャ系の入った可愛いお姉さんが対応してくれ、僕はチケット情報が入っているiPhoneを差し出した。そのiPhoneを受け取ってしばらくして、「プリントアウトしてないとダメだ」とのこと。
iPhoneだとeチケットのファイルをそのまま閲覧できないし、メールできたeチケットもWiFiが入らないと閲覧できない。なので「紙」が必要らしい。

もう時間がない。出発まで5分前。

ペルシャンのお姉さんは果敢に対応してくれた。
「PCからUSBでデータを渡せ」と、そしてプリントアウトしてくれチェックイン窓口と恐らく運転手にも連絡してくれた。

その間、フランス語が解釈できない僕らにアフリカ系の女性客が僕たちに英語で通訳してくれた。

そのバスは結局23分遅れで僕たちを乗せて出発した。


これでホッとした僕たちに、また降りかかってきたのはイミグレーションだった。
何しろエストニアのタリンに入って以来、一切のパスポートコントロールを受けてないのでパスポートにはEUのスタンプがない。ビザなしでEUに滞在できる90日間(シェンゲン協定)を越えて不法滞在できるってことでもある(この陸路での方法は、裏技かもしれない)。つまりユーロ圏にいつ入ってきたのか確たる証拠がないのだ。


最初にフランスの出国。荷物検査も難なくクリア。
が、バスの乗客の一人が荷物検査でひっかかったらしく、しばらくバスが出発せず、乗客はイライラ。
30分近くして、やっとその乗客が乗り込んで来た。
発車して1分もしないうちにバスは停まった。アナウンスが「パスポートコントロール」と流れると乗客からブーイング。みんな同じ気持だ。
続いてイギリスのイミグレーションである。

やはりチェックが入った。同じく相方もチェックが入ったが、ここは慌てず持参してたユーレイルパスを見せて難なくクリアした。
するとさっきと違う乗客が、また出てこない。
そしてみんなイライラするなか、1時間半後にパリを出発した後続のバスに追いつかれてしまった。
つまり定刻より1時間半遅れているということである。
この遅れは僕らの30分。フランスのイミグレーションの30分、イギリスのイミグレーションでの30分という三位一体の罪の上乗せサンドウィッチである。


その後運転手の気合とドライブテクニックと早く仕事を終わりたい気持ちが、ロンドン到着定刻より1時間遅れという30分挽回を果たしたのである。

乗客のみなさんごめんなさい。
助けてくれたみなさんありがとう。

あ、フランスの仕組みは弱者に冷たく、フランス人はとても旅人に寛容だと感じましたよ。

2010年8月16日月曜日

捨てたもの達 亡くした物達

捨てたもの達無くしたもの達

持ち物は全て普段の生活で使い古した物や洋服。古本屋で買った本に頂いた本、そして100円ショップで購入したものばかり。
荷物が重すぎるので、積極的に使用済みのものを捨てて逝っている。本はなるべく安宿に残置してリサイクルされることを望んでいる。

リスト
■日本では流行遅れで着れない数枚の長袖シャツ
■ネパールで買った数枚の長袖シャツの袖 → 袖を切ってTシャツにした
■毛玉のできた数枚のフリース
■部屋着を通り越した数枚のTシャツ
■数枚のパンツ(乾きやすいトランクスに限る)
■数年前100円ショップで購入した数枚のタオルハンカチ
■ゴムが伸びた数枚の靴下
■コンバースシューズ → 臭くなって捨てた
■本数冊 → シベリア鉄道以降なかなか読む時間がない。
シベリア鉄道以降は「大往生」「何でも見てやろう」「中吊り小説」「12万円で世界を歩く」「地下鉄に乗って」「モザイク」

■ダイヤル錠 → なくした
■ワイヤー錠 → ロシア人に壊された
■コロン1瓶 → ロシア人にあげた
■恥じらい → 急激に減っていく。ブロンド女性の前でパンイチで歩けるまで成長した。いや、恥じらいが激減した。

ちなみに書籍の「12万円で世界を歩く」「地下鉄に乗って」とデッサンの教本の3冊新品で3500円相当をパリのブックオフに持ち込んでみた。
→60セント!だった。70円くらいかな。3500円が。帰りの電車賃にもならなかった。


パリ滞在記 宿編

巴里滞在記 宿編

巴里に着いてからとうとう1週間になろうとしている。(今はロンドンです。ちなみに明日夜行でダブリンへ。)

エッフェル塔に凱旋門、シャンゼリーゼ通にベルサイユ宮殿、ルーブル美術館、ノートルダム寺院、オペラ座、そしてセーヌ川のほとりを散歩する話を延々と書き綴ったところで、書いている自分が飽きてしまうので、別の話を書こう。

韓国のおばちゃんリーさんが経営する日本人宿について記録しておく。
ユースホステルなどだけが掲載された安宿探しサイトで、パリの宿を探してみたがシーズンであるため、1泊が25ユーロを下らない。そこでそういったサイトを諦め、サーチエンジンで探すとその宿は見つかった。

その宿の公式サイトを見ると、明らかに怪しい。というのも、宿の住所が書いていない。迷いやすいのでという理由まで書いてある。そして最寄駅に迎えに行くと。
さらには、「猫を飼っているので、猫アレルギーの方はダメ」とのこと。そして、1泊だけの宿泊は受け付けていないらしい。

そんな宿を何故選んだかは、やはり値段である。軒並み1泊25ユーロを超える中、その宿はなんと2泊目までは1泊辺り20ユーロ。そして3泊目からは15ユーロという破格値なのだ。


パリに到着した日、指定の最寄駅に到着した。リーさんは恰幅の良いおばちゃんで荷物を乗せてくれる台車を転がしながらちょっと不機嫌そうに現れた。もちろんニコリともしない。そして僕たちを見るなり、「うちは相部屋で二段ベットなんですけど大丈夫ですか?」と聞かれた。もちろん知っていたので「はい」と。

恐らく2階建てで1階はアーティストのアトリエとして使っているらしく、日本人の若手アーティストが何やら作品作りをしている。

僕たちの部屋は狭い部屋に3つの2段ベッドとシングルベッドの7人部屋。もちろん日本人しかいない。アーティストの他にも学生さんや会社員、調理士も。そして大道芸人なんかも滞在している。
大阪出身、長崎出身、三重出身、愛知出身、福島出身などなど。
アーティストさんたちも、絵画、映像、服飾の他にピアニストなんかもいる。

そんな若手アーティストを応援しているであろうリーさんはアーティストには温かいが旅行客には厳しい。その宿にはリールールがある。
例えば、キッチンがあって調理は可能なのだが、「チャーハンは禁止」とか。これは匂いがアトリエに流れるのがダメらしい。

それらのリールールに反すると、容赦なく怒られるのだ。

こんなこともあった。昼の12時過ぎに即席ラーメンを作ろうと台所にいると、「お客さんが来るから困るんですけど」とやんわり調理を断られた。どうして困るのかわからないし、さらには「僕たちもお客さんなんですけど~。」と言いたかったなぁ~。


しかも滞在途中にいきなり料理は全て禁止になるという前触れなき大なたを振るわれた。理由も説明せず、突然旅行費が余計な予算がかかってしまうのもお構いなく。


そんな暴君、ほぼ笑う顔を見せないリーさんであるが、僕たちが宿の猫と遊んでいると「超ぉ~可愛いぃでしょ~」とニコリとはしないが不気味なご機嫌加減なのである。「超ぉ~怖わっ!」


2010年8月6日金曜日

そして巴里へ

ハイデルベルクでワイルドな蚊に刺されまくった僕は
スイスで寝不足な日を送る羽目になった。

ハイデルベルクは山に挟まれた谷あいの小さな町で
第二次大戦時には連合軍に京都と同じく綺麗な街並みだという理由から
爆撃を避けられた街らしい。

谷あいにあって、近くに木々が多いのにも関わらず
寝る時に窓は全開で全裸に近い状態で寝たために
僕の体に蚊に刺された痕を数えると右ひざ下だけで15ヵ所あり
両腕に首に腹に顔から計算すると少なめに見ても一晩で40ヶ所以上刺されたようだ。
お陰で寝ている最中はもちろん、街を散策中や呑んでいるとムチャクチャ痒い。狂おしいほど痒い。
そんなんじゃ、アジアでどうするんだと自分を鼓舞するしか耐えぬく術をしらない。


そんな痒さに耐えながらスイスのチューリッヒで退屈な時間を過ごしている。
退屈なその理由はこの国の物価の高さが行動意欲を削いでいることに端を発しているのかもしれない。

オーストリアと同じく元々スイスには来るつもりではなかった。
単にユーレイルパスを消化するために来たと言っても過言ではない。
そんな適当な理由で来たので、到着してタマげた。
その物価の高さはウィーンや北欧のレベルではない。
ポテチ500円、カップヌードル200円、サンドウィッチ500円、バスの初乗り320円、マックのチーズバーガー200円超。
日本の物価と比較しても2倍3倍当たり前。
早くスイスから逃げ出したくなった。
到着した晩飯は二人でチーズバーガーをミネラルウォーターで流し込んだだけにとどまった。

翌日はユースホステルで朝食が無料なため、せっせとパンをとってはせっせとハムやチーズを挟んでいく。
何をしているかといえば、ランチのサンドウィッチ作りである。
ランチが出来上がると、モーニングをゆっくり食べ始めた。

チューリッヒに限らずスイスの観光地はあまりパッとせず、これだっていう決め手がない。
せめて「クララの立像」とか作れば日本人観光客が増えることは必至なのではないだろうか。

チューリッヒ湖で朝に作ったサンドウィッチを食べることにした。
湖の水量は多く、溢れんばかりの水が河に流れ込むので河は水流が日本の河のように早い。
サンドウィッチにパクつくと周りの白鳥や鴨が寄ってくる。
堅いパンの耳をあげると、指ごと噛まれた。結局4,5回噛まれた。
「アフラック・アフラック」と叫んでみたが土地柄チューリッヒに義理堅い白鳥は、僕を無視した。
すると中国人団体観光客が大挙してきて、白鳥たちに餌付けをし始めた。
白鳥たちは中国の好景気にフィーバーした。
きっとケチな日本人の時代は終わったと白鳥達も感じたことだろう。

交通費を節約するために、24時間パスを朝の10時半頃に購入して翌日のチェックアウト後にも乗れるようにした。

そして今、僕たちはパリに向かっている。


2010年8月3日火曜日

日本の地理で学習した地名が英語で全然通じない

日本の地理で学習した地名が英語で全然通じない

ベルリンの安宿で同じ部屋の共同生活者に「次はどこに行くんだ?」と聞かれ、「ポーランドだ」と答えたが、キョトンとされたので、「ワルシャワだよ」って答えたのだが、やはりキョトンとされ、もういいって感じになって話はそこで終わってしまった。
よっぽど僕の発音は駄目だなぁと落ち込んでいたのだが。

後でポーランドを調べると「ポルスカ」だしワルシャワは「ウォルソー」だとわかった。
その後もクラクフは「クラコー」だしプラハもウィーンもオランダも英語では通じないことを今頃この歳になって知った。

この日本語読みの外来語教育ってどうにかならないんだろうか?
いや、学校の英語教育をちゃんと受けてた人は、ちゃんと知ってたの?僕はサボってばかりだったんで、ハイ。。。

英語ができないということ

英語ができないということ

英語ができなくても旅行には全然困ったりしない。というのはウソになるかもしれないが、ほとんどの場合身振り手振りと少ない英単語で切り抜けられる。大事な部分の単語は大きく言ったり繰り返したり。

これはテクニックだが、列車の切符の予約などはこちらの発音が悪く聞き取ってもらえなかったり、係員の言ってることがわからなかったりするので、僕はいつも前もってメモ帳に日時とどこからどこまでと枚数などを書いて見せる。するとあっという間に切符が買えるのである。

肉屋や惣菜屋では、欲しい食材なんかを指さした後に、メモ帳に予め書いておいた「100g」のメモを店のお姉さんに見せたら、大爆笑され「ナイスナイス」と大受した。

食事だって、他の客のメニューを指さして「セイム、セイム」とか言ったら出てくるもんだし。

と、ま~英語ができないからって別段困り果てたことなどはない。
最近喋ったというか口にした英語は「Yes」「No」「OK」くらいだ。
日本人の留学生に宿で話したとき「英語が喋れないのに放浪してるって、ソッチの方がある意味凄いっすね~」とか言われるし。

というか、旅で困るのは当たり前と開き直っているからかもしれない。



ただ、英語ができないと楽しみが半減してしまうかもしれない。
例えば、博物館系に行った場合だ。美術館系では美術作品を観て感じるだけでも楽しめるので良いし、博物館ではそこのガラスケースに入っている書簡や生活道具やら写真が何を意味するか説明がわからない。日本語で説明が書かれているものは、まず無い。そしてオーディオガイドなどの説明でも日本語の物は少なく、英語を代表とする外国語がわからないと、そこに置いてある靴が写真が制服が何を意味するのかサッパリわからないのである。
ま、美術館のコンテンポラリーアートを観るように勝手に理解して(一方的に決めつけて)楽しむ方法もあるかもしれないが。

そして、せっかくドミトリーという中で全く知らない外国人と共同生活を送るのに、コミュニケーションが取れないのは、かなりの損だと感じる。
酒で仲良くなって言葉少なにコミュニケーションが取れるまでは良いのだが、それ以上の言語コミュニケーションが取れないのは、せっかくの機会を題なしにしているとしか思えない。
色々な価値観や考え方や各国のトレンドや仕組みや文化なんかを直接聞き出すチャンスでもあるはずだ。

聞いてみたいことはたくさん出てくるが。

判りきったことだと思っていたが、
「英語ができないということ」は、自分の世界がある程度までしか広がらないこと、だと実感した。

40の手習い。頑張ってみましょうかね。


2010年8月2日月曜日

ユーレイルパスの使い道がない

ユーレイルパスの使い道がない
ユーロ圏内で列車がフリーで乗れるユーレイルパスを大枚を叩いて購入したのだが、僕らの旅の仕方にはちょっと使い道があまりない。

ユーレイルパスは国内にいるときに、2ヶ月間の間に2人で10日分を乗り放題にできるものを10数万円払って購入したのだ。
計算すると1日に一人当たり7000円以上の乗車をする場合に有効なのだが、意外と列車料金が安いため使うに至らない。
しかも僕らの旅の仕方は、渡り鳥のように町から町へ、国から国へと隣国隣町へと少しづつ移動していくので距離が稼げないので料金も高くならないので、これまたユーレイルパスのご利益に預かれない。

寝台列車はベッド台は別で、二人で12000円もするので、宿に泊まったほうが安くつく。

そんなことで、ユーレイルパスを使うがためだけに無謀な、意味不明な行動な計画を立ててしまった。
内陸のミュンヘンからいきなり北上して海側のハンブルクへ。そして再び内陸のケルンとハイデンベルグへ。そしてさらにスイスのチューリッヒに。
そしてパリへ。移動距離だけは激しい。これで少しはユーレイルパスの恩恵を感じることができるだろう。