2011年2月25日金曜日

帰国して思うこと(食べ物)

とにかく食べられるものは食べた。
そのほとんどは、屋台や食堂で地元の人とたちが
普段利用するような店を選んで入って食べた。
なかにはかなりのゲテモノもあり、それでも食べたことのないような
料理や具材があると率先して注文した。
例えば、羊の脳みその煮物(モロッコ)、脾臓バーガー(イタリア)、馬肉サンド(イタリア)、
カブトガニ入りサラダ(タイ)、こうもりの焼き物(タイ)、豚の脳みそスープなど。

やはりいろいろな地域を回って感心するのは、地域の食べ物と酒の合致。
実によくできていると思う。

さらには、山の幸には岩塩、海の幸には海の塩。が合うように感じたのだがどうだろう?

今回の旅で食べ物に関しては色々感じ考えさせられた。
食べ物がどこからくるのか?というのを最近の子供たちは知らない。
肉や野菜は工場で製造されていると思われているのかもしれない。
日本ではほとんど肉はすでにパックされているものが整然とならんでいて
とても生き物とは思えない。
そして肉の塊なんかも、そうそう見ることができない。

ヨーロッパをはじめ中東にしてもアジアにしても
市場や肉屋に行けば、皮を剥がれただけの殺された生き物が
ぶら下がったりしている光景は普通に見受けられた。

これは強烈に生き物イコール食べ物ということを叩き込まれた。

こういった生き物イコール食べ物という目でわかる教育というか
環境って必要なんじゃないかと。

日本では人の出産も死期も、生活の環境下(家)ではなく
病院に行かなきゃ見ることができなくなったが、
「食べ物がどこからくるのか」も、生活環境にはなくなってしまったようだ。

僕はイランのテヘランでのお祭りで生贄になった牛が道端で手足を縛られ
涙を流しながら首を落とされ、さらには皮を剥がされ解体するのを
興味深く見ていた。
皮を剥がされていく時に、今まさにイキモノがタベモノに変わった時だと
それを目撃できたことに少々興奮を覚えた。

食べ物を大切にというお話っぽいのだが、僕はそう感じたのだが
今僕が気になっているのはそういうことではない。

食事と運動に関して疑問が残ったままになっていることがある。

食べ物を大切にする人でも、「カロリー摂りすぎたから運動をする」とか言って
せっかく摂取した食べ物イコールカロリーを消費というか浪費するのってどうなんだろう?
ジョギングしたりしている人を見ると、なんだかなぁと思ってしまう。
それって、ちょっと給料が多かったからどんどんドブに捨てないとね、みたいな。
どうせ後でカロリー消費のための運動をするくらいなら
最初から食べる量を抑えるのが、正しい「食べ物を大切にする」方法かとも思う。







帰国して思うこと(英会話)

中学校、高校と6年間、人によっては大学に行ってさらに英語を学んでいる。
しかも僕は数年前ECCに英会話を習いに行った経験がある。

しかし!・・・喋れないのである。
どれくらい喋れないかというと、行き先を聞くとか食堂で注文するとか
ほとんど英語を必要としない程度の英語しか知らないのが実情。
一番の難しいのは電話だったりする。表情もボディランゲージが使えないからだ。

その状況は下記アドレスに書いたことがある。

海外旅行をしていて思うのは、中国人や台湾人とくに韓国人は
英会話がメチャクチャうまい人が多い。
日本人はというと、大概英会話できない人が多い。

そして、日本人は英会話が苦手という認識は世界の人々が認めるものだと思う。
なぜなら、彼ら欧米人にとって、または中東の人などにとって
中国人も韓国人も日本人も見分けがつかない。
その彼らが僕らに「英語は喋れるか?」と聞き、「喋れない」と答えると
「日本人ですね」とどこに行っても、同様の認識をされていた。

なんで日本の英語教育では英会話ができないんだろう?
6年間も英語を勉強しているにもかかわらず。


さらに僕は数年前にインドのバラナシで日本の英会話教室にいたこともある
カナダ人から衝撃的なことを聞いたことがある。
「ECCとかNOVAとかじゃ、いつまでたっても喋れるようにならないよ」って。
ずいぶん授業料払ったんだけどなぁ~。

このたびの途中に、いろいろな人に教えてもらったのは
韓国人や台湾人や中国人なんかは、語学留学する人も多いようだが
留学する前にフィリピンでマンツーマンの英会話指導を受けるらしい。
安いうえにマンツーマンなので、留学できるレベルまで短期間で
引き上げることが可能らしい。
マレーシアで出会った日本人女性もフィリピンで1ヶ月レッスンして
英語のレベルをある程度アップしてからゆっくり世界を回り始めていた。

僕はこの旅で、発音の悪い文法がデタラメな英語で喋って
相手が「ハ~?」と眉間に皺を寄せられても、ぜんぜん平気で
同じことをもう一度言う腹の太さを習得したに過ぎない。

誰か「くりはら君、君はもういくら頑張っても英語は喋れるようにはならないよ」と
言って欲しい。
その日が来るまで、僕は英語を勉強し続けよう。

2011年2月24日木曜日

帰国して思うこと(衛生)

帰国して1週間が経った。


普段の生活に戻ろうとする力と、冷静に先を見ながら暫くは普段の生活に戻らないように
しようとする力がぶつかり合っている。

旅をしていて何かに直面すると、日本人の考え方で日本の常識的発想、
そして自分の脆弱な価値観で直面したことに対峙する。
その考え方や常識や価値観で、直面したことが、YESなのかNOなのか
常識的なのか非常識なのかなどを判断するが、旅を続けていくと
そんな判断の仕方はしなくなる。

日本人の考え方や常識や自分の価値観という尺度で世界を測るバカバカしさに
自然と気がついて体が慣れていくからなのかも知れない。

旅をしていて直面することに対して疑問はもちろん感じるが
まずは受け入れてしまってから、自分はどうなんだろう?とか
日本では何で違うんだろう?とか考えさせられるという風に変わっていった。

その考えさせられるというのは、例えば「こんな働き方でいいんだろうか?」とか
「他のアジア人は英語が堪能だけどなんで日本人は全然ダメなんだろう?」とか
「長生きって必要なんだろうか?」「食べ物とか人の生死に関する教育って必要ないんだろうか?」とか
「日本人にとって宗教っていらないんだろうか?」とか・・・答えを出せない問題が
取り留めなく沸いて来る。

沸いた疑問のうち、日本に帰ってくるなり飛び込んできたニュースは
食中毒問題だった。

僕らは日本の常識からいうと、とんでもなく不衛生な環境で
毎日の食事を摂り、生活をしていた。

屋台などでは、水そのものが衛生的かどうかが疑わしい。
そしてその水で料理し、皿やスプーンを洗う。
その皿やスプーンを拭き取るフキンは見るからに雑巾だったりする。

食材を切る刃物にしても、その台にしてもとても衛生的とは思えない。

何よりも、作っているくれている人の手が衛生的なのかどうかが
一番疑わしい場合も多々ある。
インドの屋台で、オムレツをパンに挟んだファーストフード的な食べ物が
安かったので一つ頼んでみたことがある。
屋台のオヤジはガスバーナーを着火しようと思ったが、ガスが切れてしまっていたようで
液化ガスを入れなおし、その油が手についたまま調理を始めた。
今度はフライパンに調理油を入れ、卵を溶いて入れ、焼きあがった
オムレツをパンに乗せた後、それらの油のまみれた手の平で、これでもかと押し付けて
手の油をパンに染み込ませてくれた。
御代はもちろんその手のひらで受け取るのだった。

だが、僕らはお腹も壊さず性懲りもなく翌日もその屋台に向かったのである。

大体アジアの屋台なんてものは、こんなものである。


欧米人には、その生活の端々を覗いて驚いた。
旅はずっとドミトリーと言われる2段ベッドだけが並ぶ部屋での
共同生活をしていたので、彼らの生活習慣を実によく見ることができた。

僕らを驚かせたのは、彼ら欧米人は宿泊施設に上がると
常に裸足で生活することだった。
僕ら日本人は日本家屋に入るときは靴を脱ぐが
彼らは宿泊施設でもそうだった。もちろんその床は
畳のはずはなく、たいがいはPタイルやクッションフロアである。
日本人なら普通に靴を履いて歩くような場所である。
例えば市役所に行って、その建物内を裸足で歩くのと同じ感覚だ。
そして、なんといっても彼らは裸足のまま共同のトイレに行って
特に足を洗うでもなく、そのまま生活し続けるのだ。

食べ物や調理に関してもちょっとビックリだった。
彼らは例えばフランスパンを裸のままどこにでも置く。
極端な話、駅構内の床に置いているのを見たこともある。
ちょっとだけと言えども、口に入れるものである。
調理するときも、野菜などはまず洗わない。
さらに、どこでも切る。まな板など使わない。
テーブルなどで拭かずに敷かずに肉も切る。
そしてそのナイフも布で拭うだけでしまう。

とにかくどこを見ても不衛生なのである。

日本的に見たら、である。

そんな環境から帰ってくると、なんと衛生的な我が国ニッポンで
北海道で食中毒だ、兵庫で食中毒だとまったく持って不衛生なニュースが流れている。

そこで疑問に思ってしまうのが、なんでこれだけ衛生にうるさい日本で
食中毒騒ぎがこんなに起こるんだろうか?まして冬だ。

「殺菌」「滅菌」「除菌」をスローガンのように日々菌やウィルスと戦っているであろう
日本人はいつも負けだ。

勝手に思うところだが、「滅菌」「殺菌」「除菌」と実は商業広告の罠に嵌って
菌やウィルスを小手先でやっつけては、本来持っている抗力を弱めているだけ
なんじゃないのかと思ってしまうのだ。
何しろ子供の頃から菌に接する機会が少ないんだから抗力なんてできるわけ
ないんじゃないだろうか。
同時に、小手先でやっつけきれない菌やウィルスをより強靭に成長させいて
いるんじゃないかとも思ってしまう。

いくら本人が気を付けていても、学校給食なんかで菌入りの食事を出されると
無防備で弱い抗力の体は一発でやられてしまうんだろう。

人間も自然のひとつなら、菌やウィルスも自然のひとつだから
どこかで決着地点を作らないと、自然破壊と同じで後々とんでもないことに
なるんじゃないかと、無知な僕は心配してしまう。

インドを旅する中、祇園精舎を探して観光客すらいない小さな村を歩いていると
人と犬と牛と鶏が家と家、そして道の垣根なく生活しているのを見て
自然と共存するってこういうことなのかな?と考え込んでしまった。
きっと、菌やウィルスとも共存しているんだと思った。




























2011年2月17日木曜日

旅の最終地フィリピン

そもそもフィリピンに寄る予定になったのは、バンコクから日本に
帰るコースで直行便は高すぎるため、経由地を探すと
一番安いのはマニラだっただけである。
本当はマニラではなく台北経由も考えた。
僕も相方も台湾好き。僕は数年前まで5,6年間
年に一度は台湾に遊びに行ってたし、友達もいる。
そんなこともあって台湾経由を考えたのだが台湾の冬は
意外と寒いのだ。その寒さにビビってマニラにした。

そんなマニラなので全然情報がない。
ネットで調べても全然期待できない。
食べ物、文化、人々、観光地とどれもパッとしない。
調べて出てくるのは、ただただ治安が悪いということぐらい。
ま、直前に小向さんがちょっと盛り上げてくれましたが。

到着してみると、その通りパッとしなかった。
刺激もなければ、何かユニークな品物や食べ物などが
見つかることもなかった。
現地の人しかいない下町の食堂に足を踏み入れて食べてみる。
まるでトルコのロカンタみたいに、おかずがトレーに並んでいる。
指差しだけで注文できるのが嬉しい。
特段珍しそうな具材もなければ料理もない。
そして食べてみると、まずくない。しかし特徴がない。
しかもなんだか食べたことがあるような味ばかり。
そう、学校給食みたいなのだ。
言葉を変えれば、近所のおばちゃんからおすそ分けしてもらった、
って感じの料理ばかりで、卒もなくまずくない。
独特でなく特徴すらない。

中華街や屋台街も歩いてみたが、特段珍しい商品もない、
それこそバンコクで見られるようなオリジナリティ溢れる
Tシャツすら見つからなかった。
屋台の食べ物もバナナ揚げの他、麺類はあったがそれ以外は。。。
子どもが多い。とにかく子どもが街の中で朝から晩まで遊びまわっている。
中には浮浪児もいるようだが、なぜか子どもが元気で走り回ってる。

それと街の中は異常なほどのセキュリティ。
駅の改札前で全員の荷物の中身をチェック。
僕らはバックパックを全部オープンしてチェック。
もちろん僕らの後ろは大渋滞で長蛇の列になった。
コンビニの中にも銃を持った警備員が立哨しており
銀行などは、1m以上もする銃身のライフルを握っていたりする。
治安の悪さを物語っている。
散歩した街の中には、昼間しか営業していない小売店が
店の前面を鉄条網で囲い、お客が入れないようにしているほど。
恐らく昼間でも強奪がありえるからだろう。

軽くパッキングをした。
もう今日は日本に帰国なのだ。
久しぶりの日本。日本に帰ったら何が見つかるだろう。

ある意味フードファイティング、タイフード


僕はタイに来てから、「バイマクルー」というものに
囚われてしまった。
これはタイ料理にはよく入っているコブミカンの葉と言われるもので
独特の香りがする葉っぱで、特に食材ではない。
僕はこの香りをずっとレモングラスの香りだと勘違いしていた。
トムヤンクンなどに使われているあの独特の香りだ。

パクチも大好きで自家栽培しているぐらいだが、いまはこの
バイマクルーにゾッコンなのだ。

タイ料理は幅が広く、この旅行で言えばトルコ以来の広さだ。
トルコでもロカンタと言われる食堂には、これでもかというくらい
料理が並んでいたが、タイも負けずとステンレスのトレーに並んでる。
しかし、トルコと違うのは、トルコではどれも安全に食べれたのだが
タイでは、どれも安全に食べれると言い切れない。
何故なら、なぜなら、メチャ辛いからだ!

それは食堂であろうと屋台であろうと手加減はない。
が、気の利いた店なら、料理を指さして注文しようとすると
「スパイシー」とおばちゃんがニッコリ笑う。これが怖い。
本当に辛いので気をつけろという、心優しい微笑みである。
元々辛いものは大好きながら弱いという小生であるが
ここのところインドやマレーシアで、辛いものには
慣れ親しんできたつもりだった。

しか~し!タイの辛さはやはり半端なものではなかった。

色味で真っ赤なのは、もう慣れた。
騙されてはいけないのは、逆に赤くないやつだ。
そう、隠れて生の青唐辛子エキスや刻みが入っているから
辛いというか、痺れるぅ~、なのだ。
これを喰らった後はもう手遅れで、その後はビールを飲んでも
落ち着かないし、赤いのもダメ。それどころかちょっとだけ
熱を持ってる料理だけで、涙目になりそうなくらい辛い。

赤より青の方が強烈なんだよな。
色味的に赤のほうが辛そうだけど。

色で言うと赤よりも青のほうが温度が高いんだよね。
炎よりもガスの火のほうが温度が高いように。
実際にこの旅の途中で何箇所かシャワーの捻りのノブの色であったんだけど
日本の常識だと「赤色」がお湯で「青色」は普通の水だけど
その逆のところが何箇所かあったのだ。
自分の狭い常識に囚われてはいけない。
温度では赤よりも青のほうが温度が高いのだから。。。
そんな汗が止まらない料理、涙が止まらない料理、鼻水も止まらない料理
だけがタイ料理ではない。
もちろんタイにもホッとできる料理もある。
もちろんスイーツだってあるのだ。
(あんまりなかったけど)

でもゲテモノ行ってみましょう。
まずはカブトガニのサラダ。カブトガニのミソとタマゴを
カブトガニから掻き出したものとサラダを混ぜて出来上がり。
すんごいスパイシーな仕上がりで、やっぱり汗が止まらない。
そしてコウモリの唐揚げ。売ってたのは唐揚げとバーベキューが
あってバーベキューにはコウモリの卵付きで興味津々だったのだが
相方が、これには海老歩き。
ってことで唐揚げに決定。ま、鶏肉かカエルかってくらいのお味で
そんなに美味でもゲテでもない。
続いて、豚の脳みそアンドその他モロモロのスープ。

これは本当に何が入っているのかわからなかった。
一見すると豚の脳みそと、ほとんどホルモンかと思ったのだが
なんだか海老シュウマイ的?なものとか、魚の皮のようなテイストとか
もう明るいのに闇鍋的なスープで楽しみました。

タイではやはりスイーツってかフルーツが美味い。
トロピカルなフルーツが安くて美味い。
バナナはどこで食べるより甘かった。パインも。
もちろんマンゴーも1個500gするのを買って帰って部屋で食べたし。

結局バンコクでは、地獄寺と言うしょうもないお寺に行ったくらいで
近所をブラブラしたくらいで過ごした。
僕も相方も既にバンコクとその周辺の観光地はだいたい行っているからだ。

バンコク、いつでも来ることができる、アジアらしいアジアだ。
またフードファイティングしにくるぜ!


2011年2月10日木曜日

冷凍バスはつらいよ


僕らは常夏の楽園のクラビを出発して
猥雑な街、バンコクに向かうことにした。
クラビでは12日間宿泊したので、ビザが足りなくなる。

飛行機での入国は30日まではビザなしでいけるのだが
陸路での入国の場合は15日間以内なのだ。

既に13日経っているので僕らは、一度マレーシアに出国し
再び入国することによってビザの問題を解決することにした。

何しろこの旅で、一度ロシアでオーバーステイで冷や汗をかいているので
もう一度冷や汗はゴメンなのである。

ハジャイまでは、乗合ワゴンで。さらにその先は。。。
ハジャイで空になった乗合ワゴンが別料金でサダオという
国境の町まで行って折り返してくれる。
僕らはサダオでそのワゴンから降りると久しぶりに
国境を徒歩で渡ることにした。
国境を徒歩で渡るのはトルコからイランへ入国する時以来だ。

あの時は、朝一番でめちゃめちゃ寒かったのを思い出した。
積雪で遅れたバスはイラン国境近くに着くが、そこからは
乗合バスかタクシーしかなく、乗合バスの運行までは
まだまだ朝が早すぎた。

そこでタクシーの運ちゃんが営業してきたのだが、
当然ながらバスより運賃が高いので、乗らなかった。
他の客は2人のイラン人だけ。
彼らもシェアして安くなるなら乗ろうという感じだが
僕らが、頑として値段に応じない。
そこで、そのイラン人がタクシーの運ちゃんに
「安くしてやれよ」みたいな話をしていたみたいで
タクシーの運ちゃんが僕らの言い値に応じた。
これがトラブルの始まりだった。

国境に到着したタクの運ちゃんは、そのイラン人たちに
僕らが値切った分の差額を請求したのだ。
そして乱闘が始まった。火蓋を切ったのは
タクの運ちゃんでいきなり手を出したのだ。

空気が張り詰めるほど厳寒のトルコとイランの国境で
タクの運ちゃんとイラン人二人のファイティングが繰り広げられた。
トラブルに巻き込まれて難関と言われるイラン国境を越境できなく
なるのを避けて、黙って逃げ出したい気持ちではあるが
当事者であり証人であるという思いから、遠巻きに見守るしかなかった。

その国境は厳重を極め、数度の面接と所持品の開封チェックに
指紋のプリンティング(手のひらまで)まで行われた。

そんな寒々として厳重なイラン入国を思い出しながら
僕らはタイからマレーシアへの国境をダクダクと汗を流しながら
徒歩で渡った。その間数十分。
往復でも30分もかからない。
国境付近にはこれっぽっちの緊張感はない。
ただただ暑い。
往復イミグレーションでスタンプを貰っていざバンコクへ。

ワゴン車でハジャイまで戻り、19時発のバスを待つ。
ハジャイ発バンコク(BKK)行きのバスはかなり多く、
次々とバスターミナルにバスが着いては、ほぼ定刻で発車していく。
しかもそのバスはどれも豪奢な構えで、ほとんどが2階建てバスだ。
これはトルコ以来のラグジュアリーなバス移動ができるのではと
期待の胸は膨らむ。
トルコのバスはネクタイをしめたコンダクターが乗り込み
軽食やらドリンクを振る舞い、テレビや映画を鑑賞しつつ
バスによってはWiFiにも接続できるというサービスぶりなのである。

乗客がバスのプラットフォームに集まってくるが、出発の10分前に
なってもバスが来る気配がない。
放送では何かをアナウンスしているようだが、現地語なので
なんだかわからない。
他の真新しいバスはどんどん発着するが、僕らのバスは
出発時刻を過ぎてもやってこない。

結局1時間遅れでやってきたバスは、どうしてこんなに
ボロいバスなんだと、みんなガックリと肩を落としたのが
僕にも痛いほどわかった。



タイの長距離バスはとにかく寒い。
実は数年前にチェンマイからバンコクまでの夜行バスで
体験している。
その寒さは想像を絶し、乗り込む現地人はジャンパーを
羽織ったりセーターを羽織ったりするくらいで、バスでは
ブランケットを配るのが当たり前になっている。
が、その頃その寒いバスを知らなかった僕は、Tシャツ1枚という
格好で乗り込んだ。
朝方バンコクに到着すると風邪はひくは、お腹は痛いはで
ひどい目に遭ったのを思い出す。

あの冷凍バスを思い出しているのに、乗り込んだ僕は
Tシャツに半ズボンにサンダルである。
車内は既にキンキンに冷え込んでいた。
寒いので何かをしようという気にはなれず、すぐに寝るのだが
寒いので目が覚める。
ミャンマーで買った腰巻のロンジーで体を包み、さらに
ブランケットで包み、シートでいわゆる体育座りのままである。
時には正座したまま寝る。寝返りの代わりである。朝までである。


タイなど(マレーシアでも)の長距離バスが何故こんなに
冷房をガンガンかけて冷やすのかと疑問を感じずにはいられない。
もちろん現地の人もむちゃくちゃ寒そうにしているが
誰一人文句を言わず、ブランケットにくるまっているのだ。
いくつかの説を聞いたことがある。
1.暑い国なので、とにかく冷やしまくることが最高のサービス
ということでサービスのひとつという説。
2.暑い国なので、暑いと運転手が眠くなってしまうので、運転手のために
キンキンに冷やしておくという説。
3.冷房の温度設定がなく、ONとOFFしかない、という説。
さ、どれでしょ?

バンコクに到着しバスの外に出ると、とろけるほど暖かかった。
さ、カオサンに向かうぞ!

2011年2月9日水曜日

やっとたどり着いた楽園

僕らはクラビという街のアオナンビーチという所に宿をとり
毎日プールか海で泳いだ。
毎日100m以上は泳いだ。
泳ぎは学生のころから苦手だったが
とにかく何を目指すでもなく毎日泳いでみた。
上腕二頭筋や肩や仕舞いには胸の筋肉まで筋肉痛になった。
頭を空っぽにしたかったのかもしれない。

旅の途中に何故か何度も出てくる少年時代の光景。
車窓からの景色を眺めながら、小学校時代や中学校時代の
級友の姿とフルネームが出ては、他の級友が出てきたり
思い出の断片が何度も出てきた。
旅の途中、ずっとである。

夢にまで出てきた級友までいる。
僕の頭の中で何が起きているのか?
夢は記憶の整理をしていると、聞いたことがある。
僕は起きながら寝ながらにして、頭の中をスキャンして整理しているのだろうか?
しかし不思議と小学生低学年時代と高校生時代以降は出てこないのだ。



どんどん体中が日に焼けていく。
毎日がほとんど全裸に近い日々。


人生の中でこんなにノンビリした日々を送ったのは初めてだし
これからも、もう無いような気がする。

数々の映画の舞台になったピピ島には既に中国人が
あちこちに遊びに来ていた。
日本がバブルのころに、あちこちのリゾート地や観光地に
日本人が溢れ、ブランド品を買いあさってひんしゅくを買った光景が
もうすぐ中国人によって再現されるだけのことだ。
時代は間違いなく変わっていっている。

世界で10本の指に入るキレイなビーチと言われる
プラナンビーチにはさすがに中国人はまだ侵食していなかった。
その代わりに、有難いことに西洋人のトップレス姉さん達が・・・。
と思ってたら、おばさんも、いやおじさんももう判らないような状態で
浜に打ち上げられた焼豚のように、ほぼ全裸の肉体達が並んでいた。

ここはマリンスポーツすら禁止されていてノンビリできる。
しかし、引き潮時はキツイ。
遠浅なだけあって、どこまでも泳げる場所が見つからない。
入水自殺などもってのほかだ。
普通に隣の島まで歩けてしまった。

クラビはプーケットと違い、年齢層が高い。
だからとても静かといえる。

僕らが滞在した宿は、もう老人ホームかと思うくらい
西洋人の老夫婦が多く、プールも
生きてるのかどうなのかわからない、お婆さんの干物みたいな
ご老人達がプールサイドで天日に干されている。

ゆっくりできたので、色々なことを考えられたし
かなり頭の中をデフラグできた。

何しろこの旅で同じ宿に12連泊は始めてのことだ。
いや、人生で始めてのことだ。
日本からならプーケットまで直行便で来て
バスで3時間のここは、色々なことを考えたり
とにかく休んだりするには、静かでかなりお勧めできる場所だ。
宿も二人で6000円弱とリーズナブルだった。
(宿のアクセスはちょっと難ありですが)


ぼちぼち体も鍛えられたし、食べ物も屋台でコウモリとか
カブトガニとか変な物食べられたし
なかなか充実した日々を過ごすことができた。
体中真っ黒に焼けて、健やかなること農夫のごとし。

心身ともに健やかとなり、旅の疲れを癒した僕らは充電を完了し
猥雑なバンコクに向かうのであった。