2010年9月26日日曜日

来る日も来る日もピンチョス

ピンチョスはスペインを代表するタパスの原型。
とにかく美味いし安いし楽しい。
そんなピンチョスを楽しめるのはサンセバスティアン。
バスク地方で最も賑わってる観光地。
空も海も青い。

旧市街に並ぶバルを覗くと、カウンターには大皿の上に
ピンチョスがズラリと並ぶ。
これ、言葉が不自由な旅人にとっては、指差しするだけでいいから
ありがたい。
しかも清算方法が独特というか、商売の原点というか
客側の自己申告なのである。
つまり、「ピンチョス3個とビール(セルベッサ)1杯」と言えば良いのである。
そして数杯飲んで数品のピンチョスを食べては、次の店に
ハシゴするのがサンセバスティアンのスタイル。
僕らも毎日三軒を限度にハシゴした。
ピンチョスの具材のコンビネーションも絶妙なのだが
その具財は豪華。
フォアグラ、ムール貝、ウナギの稚魚、鴨、生ハム、ゴルゴンゾーラ、キャビアなど。
店によって置いてある所ない所があり、特徴が分かれる。

ピンチョスばかりがサンセバスティアンではない。
イカの墨煮やバカラオ(タラ)の煮込みも名物でこれらもまたお酒が進む。
お酒といえばサンセバスティアンではチャコリだ。
チャコリは発泡性の白ワインでスッキリとしてピンチョスとの相性は抜群。
注ぐときは高いところから注いで泡立てるのが普通。
二人で二杯飲んで四品頼んで、だいたい12ユーロ(1300円くらい)。
3軒回って二人で4000円くらい。
ちょっとづつ色んな味を楽しめるのがイイ。

そんなこんなで、朝ごはんはクッキーをかじり、昼ごはんはフランスパンに
ハムを挟んだり、ピクルスやオリーブの瓶詰めを食べたりと節約戦闘態勢の毎日でした。

美食三昧の南フランス(ボルドー・バイヨンヌ)



アムステルダムを発ち、パリで電車を乗り換え、ワインの名産地の
ボルドーへやってきた。

今まで夏のはずなのに寒かったヨーロッパの街々だが
ここまで南に来るとさすがに暖かい。
青空も突き抜けるように青い。蒼天だ。
ってことで?ワインのシャトー(生産所)巡りのオプショナルツアーに
参加することにした。
残念ながら日程的に白の甘口ワインのツアーにしか参加できなかった。

ツアーはバスで3つのシャトーを巡り、ガイドやその生産所の方からの説明を聞くことが出来(フランス語と英語なので、さっぱりわからん)、各シャトーでは試飲ができる。

1996年産あたりのワインになってくると、風味がワインというよりはコニャックのような重みのある芳醇な香りで驚き。
どうせサンドウィッチとかだろと期待してなかったランチタイム。
スモークサーモン一人一皿、鴨のステーキ、チーズ、デザートと。
もちろん白ワインに赤ワインにと楽しんだ。

結構高いお値段だったのだが、まずまずのパフォーマンスで満足。


ボルドーと言えば海鮮もグー。牡蠣もグー。
ってことで、海鮮盛りに追い打ちの生牡蠣。
濃厚な海鮮スープはブイヤベースのようで美味。
さらにボルドーで有名なお菓子はカヌレ。
パリでも食べたけど、美味しい。
焼いたその日に食べるのと、次の日食べるのと
もう一日置くので、食感が変わるので好みによるが
僕は次の日に食べるのが美味しかった。
更に南のバスク地方のバイヨンヌ。
有名なのはバイヨンヌ産生ハム。
そしてここも牡蠣なのよねー。(隣街のビアリッツはフォアグラの産地)
ここまで来たら当然スペイン側のバスク地方の
サンセバスティアンに行くのは必至。

美食紀行はまだまだ続く。

日記を綴ってミリオンセラーでサクセス

数週間前のアムステルダム。
自由を感じる街だった。

人はリトルニューヨークとも言うらしく
またニューヨークを作ったのはアムステルダムの人々だとも聞いた。

アムステルダムには自由があちこちに見られるし
感じることができるのだ。

マリファナや売春は合法で街のあちこちからマリファナの臭いがし
飾り窓と言われるショーウィンドウには下着のお姉さん達が
通りの男たちに愛想を振りまき、カジノも街の景色を作っている。

どう見てもラリってる男がヘラヘラした顔で歩いている横を
地元の人は気にもせずに、仕事をしたり生活したりしている。

アムステルダムの宿に到着した日、相方と宿の部屋に入ると
5人部屋のドミトリーに既に3人の男がいた。
そして当然のようにマリファナの匂いがプンプンする。
一人は確実に決まってしまっている(ラリってる)。
こりゃエラい洗礼じゃの~と思いつつ
正直、心のなかで「こら、困ったなぁ。相方のセキュリティが不安だ。」、
と思いつつも宿のオーナーは日本人女性なので、気を効かせてくれ
ウチらを別の部屋に変えてくれた。
なんだか猛獣だらけの檻から出された気分だった。

宿のオーナーはバリなどにも一時期住んでいたことがあるとのことで
バックパッカーの気持ちを良く理解してくれている
とても明るく頼もしいお姉さまだった。
また夜のスタッフ、ミッシェルもとてもお茶目で明るい。
この明るさがないと、きっとアムステルダムの宿は切り盛りできないのだろう。

ってことで、何事も試してみないと気が済まない僕は
マリファナを吸いに出かけた。
どこで手に入れるかというと、アムステルダムでは
「cafe」は純然たるカフェで「coffee shop」がマリファナを提供する場所らしく、コーヒーそのものの値段はカフェと変わらない。

そのcoffee shopに入ってコーヒーやらドリンクを飲むだけもよし。
ドラッグを買って楽しむのもよし。
コーヒー 2ユーロ。
マリファナ 3.75ユーロ(1本)

ちなみに20種類くらい色々あったが、よくわからないので
ビギナー用みたいなのを選んだ。

タバコを吸い込む要領で数服してもあまり変化がないので
深呼吸するように吸い込み息を止めること何回かしてみた。

あっという間に回ってきて、酒に深く酔ったような気怠い倦怠感が襲ってきた。
一応、保険的に相方には面と向かって僕を観察してもらうことにしていた。

視覚と聴覚が普段と違う。表現が難しい。
自分の動きもかなり遅かったりする。
言語も呂律が回ってない。

と、思っていたのだが、相方に聞くと、普段どおり全然普通とのことだった。
確かに話すことは理路整然と話しているし。
自分で自分の感覚だけが、緩慢だったり記憶が断片的というか
瞬きの感覚が長く感じたりして、短い時間が長々と感じたりして
時間の感覚がかなり乱れた。

あまりにも回ったので、1本の半分以上は持って帰った。

翌日は昼に運河脇でランチの後に一服してみた。
日本では違法なことを、青空の下でプハーっとやるのは気持ちがよかった。
昼間っから酒も飲まずにほろ酔い気分を楽しむ。

そしてまだ、余ったがオランダから持ち出すわけにもいかず、
それほど気に入ったわけでもないので、廃棄。


こうやって、旅の行方を飛び飛びであるが日記のように
つけているが、このアムステルダムで日記を書き続けて
ミリオンセラーというか世界的に有名な著者になったのが
アンネ・フランク。「アンネの日記」だ。

アンネが隠れていた建物の見学に行ってきたけど
外から見たら、「こんなイイとこに住んでたんかいな」と
思ってしまうような建物だった。
アンネの身長の記録を壁に書き留めた痕が生々しかった。
アンネはサクセスどころか、誰かに密告されアウシュビッツ収容所に
送られて殺されてしまったのであるが。

僕はこんな日記をいつまで書き続けようか。。。

2010年9月2日木曜日

とにかくビールが多い

とにかくビールが多い

ベルギーは世界三大ガッカリで有名な小便小僧があって
期待通りのガッカリで、さして他に観光名所があるわけでもない。

しかしながら名物は結構多いのがベルギーなのである。
例えばワッフルだったりチョコレートだったりマカロンも美味しいらしい。
でもやはり、ビールなのだ。

ビールの専門店があり、常時250種類ものビールが置いてある。
ベルギーのビールは330mlの小瓶で売られており
なんでもベルギー人は冷えたビールが好きで、温くなるのを嫌い
小瓶で販売しているらしい。
その小瓶で1.5ユーロくらいから売っている。
もちろん発泡酒などではない。
250種類もあって本当に味が違うのだろうかと、調査してみた。
やはりこれは試調査しないとダメでしょう。
と、飲む飲む。呑む呑む。
やはりそれぞれ特徴があってピルスナータイプやエールタイプでも
それぞれ濃さや苦味が違い、スパイシーだったり。
またチェリービールやベリービールなどの甘いビールもたくさんある。
これは女性に受けるだろう味でついつい飲み過ぎそうだ。
と、日帰りでルクセンブルクにまで足を伸ばしつつ
脱線してこちらでもルクセンブルク産のビールを調査してみた。
調査している意味がよくわかりませんが。
ルクセンブルクも観光名所も名産もあまりないようですが
世界遺産になってる城壁は、今まで見てきたヨーロッパの景色とは
ひと味違い、ルパン三世カリオストロの城を思わせる雰囲気は
なかなか見ていて飽きませんでした。
いや飽きて帰ってきました。

2010年9月1日水曜日

もうひとつの移動方法

もうひとつの移動方法

この2週間どこにいても、ずっと曇りか雨ばかりの天気だが
モン・サン・ミシェルで1日は奇跡的に晴れ上がった。
どうやらモン・サン・ミシェルのあたりの地方は、いつでも雨が多い地域らしい。

その次の日、相方が「ライトアップされたモン・サン・ミシェルを観たい」と。
ってことで、夜にモン・サン・ミシェルに行くことにした。
フランスの日没は午後9時過ぎで、モン・サン・ミシェルから宿へ向けた帰りのバスの最終便は8時40分。帰りの足が無い。
距離にして9キロ。徒歩で2時間前後だろうか。

電車、バス、フェリー、飛行機、トラム、タクシーと色々乗ってきたが
ここには何も無い。何しろこのポントルソンという街は凄い田舎なのである。
カルフールがあるが、7時半には閉まってしまい近所のショップも飲食店を除いて閉店である。夕暮れ前にである。

そこでレンタルサイクルを探そうということになった。

が、宿のマダムに聞くとこの街には「私が知る限りは、無い」とのことである。更には知り合いやキャンプ場など何箇所かに電話をしてくれ、やっと自転車2台を借りれることになった。
けど、「今夜の9時半には返してくれ」というのである。

それでは、モン・サン・ミシェルの夜景は見ることができない。
そのライトアップされたモン・サン・ミシェルを観たい旨を説明をしたらマダムがそれならと自転車以外の方法を伝授してくれた。

それは手をグーにして親指を立てるポーズで説明された。
そして「これがベストの方法だ!」と。
そっか~ヒッチハイクか~。と爆笑した。
マダムも伝わったのがわかって爆笑。

モン・サン・ミシェルへはバスで。帰りはヒッチハイクでという方法が決まった。

その日の昼間、偶然ポントルソンを散策していると二人の少年がレンヌ行きのヒッチハイクを試みている姿を目撃してしまった。
レンヌまでは車で2時間ほど。無茶だなぁ~と思いつつ心のなかで応援してみた。

夕食を終え、持参してたスケッチブックが初めて役に立つことに喜びを感じる。スケッチブックに極太のマジックペンで「PONTRSON」と書く。
そしてモン・サン・ミシェル行きの最終バスに乗るべく定刻3分前の9時27分にバス停に到着した。
しかし、定刻になっても10分待っても結局30分経ってもバスは来ない。
せっかく防寒の準備までしてきたのに、行くことすらできないではないか。

ってことで、行きもヒッチハイクすることに決めました。
スケッチブックに急遽「MONT SAINT MICHEL」と書き、無人のガソリンスタンド前で親指を立てて立ち続ける。
モン・サン・ミシェル行きの車の量よりもモン・サン・ミシェルから帰って来る車の量が多いのに不安を抱きつつ、待つこと15分。
「スペル間違えたかな~?」と思うほど捕まらない。
こんなに帰りの車が多いことを考えると、もしモン・サン・ミシェルに行けたとしても帰りの車がないことを考慮しつつ諦めかけた時、
「シャシュフォショシェシュフォショ?」みたいなフランス語で給油が終わったフランス人男性がスケッチブックを指さし声をかけてきてくれた。
はっきりいってよくわからないが、「メルシーメルシー」とか言って
車に乗せてもらった。

お陰さまでライトアップされたモン・サン・ミシェルを拝むことができました。

帰りはもっと簡単。
5分もしないうちに、マドマーゼルが停まってくれ乗せてくれました。
こういう時、わずか10数分とは言え、英語が喋れないので会話も弾むはずもなく、車内の沈黙は何とも言えないほど、気まずい雰囲気を醸し出します。

しかし、いつでも旅人にやさしいフランス人の方達よ、メルシィー。

もうひとつの移動方法。
またどこかの国で試してみよう。





2010年8月30日月曜日

バス & フェリー でダブリンからモン・サン・ミシェル

バス & フェリー でダブリンからモン・サン・ミシェル

ダブリンからのバスは20時5分定刻で出発しすぐにダブリン港のフェリーに
乗り込んだ。フェリーはイギリスに到着するとまたバスがロンドンを目指す。
本当はマンチェスターやリバプールにも寄りたかったのだが、うっかり
予約をミスってしまい、旅路を急ぐことにした。
ミスというのも、ロンドンとダブリン間のバス往復チケットが二人でたったの120ユーロなのだ。一人7000円くらいだ。
これを知って、飛びついてネットで予約してしまった。

バスはロンドンのヴィクトリアに到着したので、そのバスターミナルから
ポーツマスまでのチケットを買った。
これも二人で24ポンドと安かったので即決だった。
どうやら最近就航した路線らしく、ネットでは予約できなかった。

そしてポーツマス港からフランスのサン・マロ港まで夜行のフェリーで
移動というハードスケジュールを決行した。
この旅でフェリーには何度となく乗船し、船泊もしているが今回
チケットに書いてあるのは「リクライニングシート」とあるではないか。
フェリーなのにベッドでもない。本当にイスだった。
空いている船内では、イスで寝にくい人たちが、床でごろ寝しているため
朝方起きてトイレに行こうと思ったが、足の踏み場がなく2度寝した。
サン・マロに到着するとなんだか清々しい気分になった。
港町と旧市街。

ダブリンもポーツマスもほとんど東洋人を見ることがなかった。
このサン・マロも東洋人はほとんど見ることがない。

何故かこの週から旅の最中に子供たちが異常繁殖している。
というか家族連れが凄い増えている。
夜行バスでは夜泣きが響き連日車泊や船泊をしている老体には響く。

その体にムチを入れるかのように、バスの旅は続く。
サン・マロの次はモン・サン・ミシェルの最寄の街ポントルソンまで
バスで移動だ。わずか2時間だが、バス代も3ユーロほどとバカ安。

やはり貧乏旅行にはバスが強い味方である。

ダブリンの天気と庶民の行動は理解しがたい

ダブリンの天気と庶民の行動は理解しがたい

ダブリンの天気は毎日「曇り時々雨または晴れ」みたいな感じで
いつも空はどんより、あとは気紛れな感じでよく変わる。
ギネスビールのストアハウスが唯一の観光地みたいなダブリンは
どこも無料の国立系の博物館と美術館を毎日めぐって後にした。

ダブリンの人たちは、イギリス人とは違って対応がフレンドリーで
気性も明るく感じられた。
安宿のスタッフは、僕たちにいくら説明しても通じない英語をあきらめて
ノートパソコンを持ち出し、グーグル翻訳を使って説明までしてくれた。
また、スーパーマーケットで買い物していると、「ジャパン?ジャパン?」
と「ジャパン」をピンポイントで聞いてきた。
「そうだ」と答えると嬉しそうに
「ハルキムラカミハルキムラカミ」と念仏のように話しかけてくる。
「あ~村上春樹か~」というと、うれしそうに「イエスイエス」といって
嬉しそうに立ち去っていったおじさん。いまだに謎だ。

番外だが、宿でテレビばかり見ている初老のおじさん。
僕は勝手に彼を「テレビ番長」と名付けた。
彼は宿のコモンルームにあるテレビをこよなく愛しており
コモンルームに入り浸っては、テレビのリモコンを手放さず
テレビに一番近い席を占拠し、見たくない人聞きたくない人にも
十分聞こえるくらいの大音量でテレビの存在感をアピールする。
ある時、僕らはコモンルームのテレビに一番近い席でネットをしていた。
今までいなかったテレビ番長が現れ、即座にテレビリモコンを奪取し
テレビを付け、ボリュームを上げた。
僕らは気にせずパソコンにかじりついていると、テレビ番長がすぐ横に座り
しばらくすると離れていく。すると何やら臭い。
また近づいてきては離れていく。するとまた臭い。
どうやら屁をこいて、匂いで自分の席を取り返そうという作戦らしい。
とても可愛いおじさんである。
もちろん僕らが席を変えたらすぐにテレビ番長は定位置についたのは
言うまでもない。


ダブリンは、今までになくファンキーな街だった。
浮浪者も多いのだが、最初に目にしたのは酒屋からいきなりダッシュする
浮浪者とそれを追いかける警備員だった。
さらには、教会の隣の公園と奥の林の鉄柵でしゃがみ込んで襟を立てて
注射器で何やらしている兄さんや、どう見ても少年達が瓶ビールを
ラッパ飲みして奇声を上げていたり。

とにかく理解しがたい方たちなのである。


2010年8月27日金曜日

8月15日はとても平和な日だった

8月15日はとても平和な日だった

8月15日というと、日本人にとっては少し重たい感じのする日だ。
終戦記念日。いや降伏記念日と言っていいのかもしれない。
日独伊以外の国々の人々にとっては、戦勝記念日だったり
抗日記念日だったりして、同じ日なのに捉え方は真逆だ。
敗戦国とはいえ、敗けたことを恥じるよりも
他国を軍事力で征服して、その民族あるいは文化を傷つけたことの方が
後ろめたい気持ちが強い。


今年の8月15日。僕たちはロンドンの安宿にいた。
翌日はチェックアウトの日。
10ベッドある部屋に日本人は僕たち二人。
他には台湾人女子学生二人と韓国人学生とその先生が合計6人で
いわゆる戦勝国で満室だった。
今まで3日間共同生活を送っているが、せいぜい挨拶程度で
コミュニケーションは全くとれていない。

夜の10時過ぎ、韓国人数人を除く全員が部屋で、寝るまでの時間を
各々過ごしていた。

僕のとなりのベッドの女の子がその向こうのベッドの台湾人に話しかけた。
それは他愛のないことを中国語で話しかけたのだ。
例えば挨拶や返事とか。

その韓国人はお世辞にも中国語も英語も上手くなく、それがかえってみんなの笑いを誘い、
部屋全体の空気を暖めた。
その韓国の女子学生がそれでも笑いながら知ってる限りの中国語を並べる。
台湾人女子学生も笑いながらそれに答える。

台湾人女子学生が今度はこっちの日本人である僕たちに振ってくる。
僕たちも答える。すると片言の日本語を喋れる韓国人の男子学生が寄ってくる。
日本のアニメの話や韓国のエンターテーメントの話や台湾のミュージシャンの話に飛び火してすっかり盛り上がった。

さらには日本で恋人を呼ぶ時、どうやって呼ぶのか?とか、韓国では「オッパー」はお兄さんなのか、彼氏なのか?など極東コミュニケーションで盛り上がった。

ちなみに、韓国人の男子学生はアニメで日本語を勉強したらしく、かなりナチュラルな日本語を知っていた。またアニメだけでなく日本の小説も好きらしく、僕が読んだことがない最近流行りの作家の名前や作品も上げていた。(もちろん「オタク」とか「萌え」とかの語録は知っていた)
またドラマや映画も知っており、少し驚かせられた。
こちらがあまりにもアジアのエンターテーメントに疎いのが、更には英語力の足りなさが、ちょっとコミュニケーションを盛り上げられない結果となった。

いつまでも、こんな平和なアジアが続きますように。
その場に中国人がいなかったことが残念だが。


2010年8月18日水曜日

安宿での生活

安宿での生活
安宿の生活は慣れてしまえばどってことなく、快適ではあるが快適でない場合も多々ある。
1泊から4泊程度で次々に街を移り、宿を変えていく生活をしていると、その宿に慣れたと思うと次に移動だったりして慌ただしい。

安宿はホテル以上にその宿ごとに特徴があるといえる。
例えばシャワーなんかも、宿全員共同の場合と各部屋の中にあってその部屋の人間だけがシェアするようになっていたりと。またシャワールームとなって独立してる場合とトイレと一緒の場所も。なんといってもシャワーで気をつけないといけないのは排水具合だ。まだヨーロッパ圏内なのでほどほどに良いが、アジアに入るととたんに悪いので下手すると逆流してくるので気分が悪い。
僕は髪を短髪にしたので、頭から足の先まで石鹸1個で洗い上げる。
洗濯は僕はシャワーを浴びたあとにすぐ洗面所で石鹸をこすりつけて洗い絞りベッドの脇に干す。
トイレも今のところちゃんと流れている。小さなドミトリーだとトレイの数が宿泊客数に対して少なすぎて、朝などはみんな小刻みに足踏したりするはめになる。
キッチンと冷蔵庫の攻防が一番大変かもしれない。
コンロ、フライパン、鍋、皿などの数が限られているからだ。
キッチンがある宿ではたいがいこの手の道具が揃っているのだが、ちゃんと洗っているとは限らない(たいがい汚れが残ってる)ので、料理の最初は道具や食器洗いから始まる。
料理はほとんどパスタ。しかもペンネ。スープを作ってペンネを入れたり、パスタソースを買ってきてソーセージや野菜を炒めて絡めて食べたり。
今のところペンネが一番使いやすし持ち歩きやすいし腹持ちが良いし、安い。ま、かなり飽きているのだが。
かといって日本食が恋しいなんてこともない。
その時々の共同生活者とは挨拶は欠かさない。部屋で初顔合わせ時は「ハーイ」とか「ハロー」とか声を掛け合う。これはたぶん挨拶という行為というよりも一種のセキュリティ検査なのではないかと思っている。気難しい人間ではないか?非常識な人間ではないか?などを挨拶で感じ取っているのではないかと思う。
あまりに粗暴な共同生活者も面倒だが神経質な共同生活者が同じ部屋にいると気を使う。若い子なんかは深夜に帰ってきて昼ごろまで寝ている場合が多く、僕らは年寄り臭く早寝早起きを励行しているので、朝にガサガサするとたまに舌打ちが聞こえてきたりするからだ。
どいつもこいつも身の回りの整理整頓なんかはしていない。それは男女関係なくで、若いお姉ちゃんのブラやパンツが普通に眼につくところに脱ぎ捨ててあったりする。

ちなみに今までの共同生活者で挨拶程度を交わした国の人々は
アメリカ、ハンガリー、スペイン、ペルー、フランス、ポルトガル、中国、香港、台湾、韓国、デンマーク、イギリスそして日本。
同じ安宿なのに設備だけでなく、雰囲気が全然違ったりする。
それは経営者の考え方の違いなのではないかと、よく感じる。
ウェルカムな態度がとてもよくわかる宿もあれば、とにかくセコいと感じる宿もあるし、まったくサービス精神を感じないスタッフの対応にがっかりする宿もある。
ま、まだまだこんな生活が続く。


旅長ければ恥多し(パリからロンドンへバス移動)

旅長ければ恥多し(パリからロンドンへバス移動)

この数カ月、バスなどに乗ると右車線だったのが、とうとう左車線になっていた。
乗っていたバスはフェリーに乗ってドーバー海峡を越えると思っていたのが、電車に乗り込みトンネルでドーバー海峡を越えてイギリスへと運ばれてきた。

今回の旅でバスでの移動は3回目。最初はストックホルムからオスロ。2回目はオスロからコペンハーゲン。運行はスウェバスだった。
スウェバスはチェックインがなく、チケットさえあればそのままバスに乗り込めた。

しかし今回の運行はユーロライン。
乗り場に行くとチェックインが必要だった。(スウェバスでは不要)
チェックインの窓口は発車30分前にして、行列ができておりとても間に合わなそうな状況。

そこでチェックイン窓口ではなく、インフォメーション窓口に並んだ。
窓口の恐らくペルシャ系の入った可愛いお姉さんが対応してくれ、僕はチケット情報が入っているiPhoneを差し出した。そのiPhoneを受け取ってしばらくして、「プリントアウトしてないとダメだ」とのこと。
iPhoneだとeチケットのファイルをそのまま閲覧できないし、メールできたeチケットもWiFiが入らないと閲覧できない。なので「紙」が必要らしい。

もう時間がない。出発まで5分前。

ペルシャンのお姉さんは果敢に対応してくれた。
「PCからUSBでデータを渡せ」と、そしてプリントアウトしてくれチェックイン窓口と恐らく運転手にも連絡してくれた。

その間、フランス語が解釈できない僕らにアフリカ系の女性客が僕たちに英語で通訳してくれた。

そのバスは結局23分遅れで僕たちを乗せて出発した。


これでホッとした僕たちに、また降りかかってきたのはイミグレーションだった。
何しろエストニアのタリンに入って以来、一切のパスポートコントロールを受けてないのでパスポートにはEUのスタンプがない。ビザなしでEUに滞在できる90日間(シェンゲン協定)を越えて不法滞在できるってことでもある(この陸路での方法は、裏技かもしれない)。つまりユーロ圏にいつ入ってきたのか確たる証拠がないのだ。


最初にフランスの出国。荷物検査も難なくクリア。
が、バスの乗客の一人が荷物検査でひっかかったらしく、しばらくバスが出発せず、乗客はイライラ。
30分近くして、やっとその乗客が乗り込んで来た。
発車して1分もしないうちにバスは停まった。アナウンスが「パスポートコントロール」と流れると乗客からブーイング。みんな同じ気持だ。
続いてイギリスのイミグレーションである。

やはりチェックが入った。同じく相方もチェックが入ったが、ここは慌てず持参してたユーレイルパスを見せて難なくクリアした。
するとさっきと違う乗客が、また出てこない。
そしてみんなイライラするなか、1時間半後にパリを出発した後続のバスに追いつかれてしまった。
つまり定刻より1時間半遅れているということである。
この遅れは僕らの30分。フランスのイミグレーションの30分、イギリスのイミグレーションでの30分という三位一体の罪の上乗せサンドウィッチである。


その後運転手の気合とドライブテクニックと早く仕事を終わりたい気持ちが、ロンドン到着定刻より1時間遅れという30分挽回を果たしたのである。

乗客のみなさんごめんなさい。
助けてくれたみなさんありがとう。

あ、フランスの仕組みは弱者に冷たく、フランス人はとても旅人に寛容だと感じましたよ。