2010年11月26日金曜日

ユーゴはレトロな車天国

旧ユーゴスラビア地域では、僕が今まで見たこともないような車や
子供の頃に「自動車図鑑」なるものでしか見たことがない車が
今も現役で走っていたりして面白い。

特にセルビアとマケドニアが目立った。

ついつい写真をとってしまったので、その写真を貼り付けておこう。


ユーゴスラビア紀行(マケドニア編)

アルバニアの首都ティラナに別れを告げる。
隣の国のマケドニアのオフリドに行くためだ。
オフリドの隣町のストゥルガへ行くバスは一日に一本だけとのこと。
19:30発でストゥルガ着予定が23:30予定。
ストゥルガからタクシーで5分。深夜12時前にチェックイン。
これが僕らの希望する予定だった。

マケドニアはアルバニアの東側。
しかしバスはどう考えても西へどんどん走っていく。
iPhoneのコンパスで確認してもやはり真西に走ってる。
これは絶対バスに乗り間違えたと。
隣のおじさんにこのバスはどこ行きだ?と聞くと
ドゥラスと確かに答えた。ドゥラスはアルバニア西の海岸沿いの街だ。
で、僕はストゥルガに行くつもりだ。というと、大丈夫だ。という。
どうやらドゥラスに寄ってから真東のマケドニアに向かうらしい。
ホッとした僕はすっかり眠りについてしまった。
気がつくと山の中のレストランにバスは停まった。
時間は22:30頃だ。到着予定まで後1時間なのに
食事休憩などけっこうなのになぁと思ったが
いつまでたっても発車しない。とうとう23:30になってしまった。
事情はよくわからないのだが、このレストランにポリスが来て
パスポートチェックを行なってたらしい。
また走りだすが、入国のパスポートチェックがなかなかない。
また眠りに着いてしまい、気がつくとそれらしい建物で停車していた。
そしてパスポートチェックが終わると、全員降りてバスを乗り換えてくれと

言われ、荷物も載せ替えて指定のバスに乗ったがなかなか発車しない。
何やら乗客と運転手がもめている。深夜の2時近くである。
どうでもいいが、早く発車してくれ~。

4時間で到着予定が3時間遅れの7時間で深夜3時前にストゥルガらしき
街の外れに二人ポツンと降ろされた。
バスチケットを買うとき、タクシーならすぐ捕まるから大丈夫って言われて

たが、タクシーなんかあるわけない。
・・・。
あった。偶然にも流しのタクシーが真っ暗闇を走ってきて停まった。
どうやら他の地方から来たタクシーであまり地理に詳しくないようだったが
とにかく普通の料金で乗せてくれ目的地のオフリドに到着した。

さて深夜3時に予約しておいた宿探しだ。
まったく宿は予約しておくべきか、しないで到着してから探すべきか
こういう時は悩ましい。

地図を頼りに重い荷物を背負いつつ歩くこと20分。
これまた看板が出てない、表札にも何も書いていない番地だけが
合っている建物を発見。
しかし、ソベみたいな民家でレセプションなどありそうもない。
それ以前に、門扉が堅く閉ざされている。
かといって、この家が予約した宿なのか確証もない。
もう呆然である。
しかし、寒いのも事実。
思い切って電話をかけてみた。
すると、この建物からベルの音がなるではないか。

謝りつつ感謝しつつ説明しつつ
部屋の中に入れてもらうことができた。
そしてその時の彼ら家族の対応は深夜3時半過ぎに
叩き起されたにも関わらず、ウェルカムだったのだ。
これっぽっちも嫌な態度はなかった。
きっとこの家族の語り草になったことだろう。

これを体験したとき、僕には宿屋はできないかも。と思った。

翌朝、奥さんに謝るとリビングに招かれトルキッシュコーヒーと
おばあさんの漬けたプラムをいただいた。
このプラムがすごく気に入って後日タッパに入れてもらった。
おばあさん、ありがとう。
旅は恥の掻き捨てと言うが、まさにその通りである。
旅はその先々でも迷惑をかけ、国で待ってる人にも迷惑をかけ
まったく自分勝手なものだなぁと改めて痛感した。

みんな~ごめんねごめんね~って軽すぎるか。


サランダの安宿ドミトリー

アルバニアのサランダでのイイ思い出を支えてくれたのは
やはり宿だろう。
今年オープンしたばかりらしいが、小さいながらグーな
パフォーマンスだったのがBackPackers SR という安宿。
通称Tomy's Hostel。

3DKのマンションで3部屋にそれぞれ4ベッド、4ベッド、6ベッドの
14人収容のドミトリー。
キッチン、トイレ、シャワーは共同。
マンションそのものが新しいらしく、部屋はとても清潔。
ま、それはよくあるが、やはりここの売りは管理人のTOMYの人柄だろう。
僕らが土砂降り直後に、その宿を探して辿りつくかどうかというタイミング
でTOMYは満面の笑顔で「ウェールカ~ム!」と道路に握手しに出てきてくれた。

部屋の説明を一通り終わると、夕食はどうするのか?トラディショナルなチープな店なら紹介するよと店まで連れていってくれ、店員にも何やら説明してくれ、お勧めのメニューまで教えてもらった。明日はどこに行く?バスはあそこから8時半に出るから、何か聞きたいことない?と細かい気配りようだ。

朝は近所の焼きたてパンと手作りジャムを買ってきてくれてブレックファースト。バスの運転手へアルバニア語で書いた添え状まで毎回書いてくれた。

あまりにも居心地が良いので一泊延長してしまった。
チェックアウトの日が日曜日になってしまったので、朝御飯はどうする?と聞かれたが、「明日はいらないよ」と言っておいた。
そして鍵だけテーブルに置いてチェックアウトしバス停に行く。
と、TOMYがいるではないか。
そしてバスの運転手に説明してくれチケットショップの場所を教えてくれ見送りをしてくれた。
感激のさせどころを良く知っているイイ奴だ。

BackPackers SR のTOMY、イイですよ~。


2010年11月25日木曜日

ザクの頭とブルーアイ

かつて鎖国だった国、ねずみ講で傾いた国アルバニア。
草ぼうぼうのの世界遺産だけではない。
ガイドブックにも載ってない名所をローランド君に教えてもらった。
その名もブルーアイ。
この名前を聞いただけでも行きたくなってしまうではないか。
ってことで、前日に調べ行ってきました。
サランダからバスで1時間。
牛が徘徊する牧場と言ってもいいような野原が
そのブルーアイに通ずる道の入口。
そこから3キロほどの山道を歩くと、疲れを癒す水の音が。
限りなく透明に近いブルーだ。
さらに河を逆上ると、あった!
まさしくブルーアイスプリング。




こんこんと大量(7.5㎥/秒)に水が湧き出ている。
で、誠に寒いのですが、誰もいないですしせっかくですので
泳いじゃいました。海パンもないのに。
さすが通年10度Cを保つ湧き水だけあって、メチャクチャ冷たい。
このブルーアイスプリングは歩いていけるところは、ここくらいで
この他に17つもあり地元の人は、夏場にキャンプしに遊びに行くらしい。

もうひとつは、よくアルバニア名物とも揶揄される防空壕の残骸。
バスに乗っているとよくみかけるガンダムに出てくるザクの頭みたいな
コンクリートの固まり。

1970年代に、鎖国政策をとり国際社会と距離を置いたものの
有事に国民を守るために防空壕を75万も設置したらしい。
山間や道の脇や畑の間にも見られ、知らないと結構不気味な光景だ。
これを用いて観光の目玉にできないかとか、アートにならないかとか(実際に使われた例もあるらしい)、色々考えられているらしい。

僕は好きだぞ。頑張れ!アルバニア。

ローランド君との出会い


ジロカストラ城からの帰り、サランダ行きのバスを道端で待っていると
黒のワーゲンのセダンで声をかけてきたのがローランド君だった。
運転してたのはローランド君の部下なのか年下の青年30歳そこそこ。
ローランド君と言うと、なんだかヤングでポップでみたいな感じだが
風体は、プロレスラーの蝶野さんみたいなイカツイ感じなのである。
サランダまでの1時間はあまりにも長い。
というのも、僕らの英語のボキャブラリーはもういっぱいいっぱい。
彼らは英語はとても流暢だった。
というのも、彼らは建築技術者(恐らく現場監督では)でローランド君は自

営業者で
海外にも行くことがあるという。
なので英語はもちろんギリシャ語とイタリア語も喋れるという。
そして日本にも仕事で一度行ったことがあるらしい。
ということで、日本語は喋れないまでも日本ブランドはよく知っている。
そのよく日本ブランド通のローランド君だが、
「これも日本製だ」と見せてくれた携帯電話はHTC製(台湾)だった。
こんなおちゃめなローランド君は、車を停めさせ店に入っていくと
ビールを買ってきて僕らに振舞ってくれた。
そしてこの車中で手に入れたブルーアイという歩き方にも載っていない
情報が僕らの行動を変更させた。
翌日お茶でも飲もうということで自宅の電話番号を聞いて別れた。
結局ビール付きで宿の前まで送ってもらってしまった。

翌日ブルーアイに行った後、ローランド君に電話してみた。
数分後ローランド君が待ち合わせのサランダのセントラルに車で
やってきた。
そしてイオニア海に面したカフェに向かった。
もう昨日の車内で話すことは殆どないし、英語のボキャブラリーも
尽きているが、仕事のことやお互いの国のことについて
ギリギリの英語で話し合った。通じているかわからんが・・・。

神戸は大都市なのか?と聞かれ、小さな都市ですよって答えたら
人口は何人くらいだ?って聞かれたので150万人くらいだって
答えたら驚いてた。
そしてアルバニア全土で300万人だよって。
そうだ日本て人口が多いんだよなぁ。全然意識してなかった。

アルバニアはあちこちで公共工事や建設工事が行われていて
さぞかし景気がいいんだろうなぁと思って聞いてみると
景気は悪く、政府の経済政策が悪く、まだまだ国民は貧しいらしい。
そういうローランド君は仕事は忙しそうでかなり富裕層に入るのだろう。
首都のティラナとサランダにマンションを持ち、車も持っている。
写真を見せてもらったが、美人な奥さんと可愛い7ヶ月の子供がいる。

僕らはエスプレッソ、ローランド君はエスプレッソマキアートを
飲み干し、明日はビールを飲もうと約束して、またローランド君に
ごちそうになった。

その晩の7時、約束通り宿の前にローランド君がやってきた。
彼の提案でサランダの城跡に行こうってことで車を走らせてくれた。
その夜景は、日本の夜景に比べたら光量不足ではあるが
この都市では一番の夜景に違いないことは確かだ。
サランダの湾が一望できるのだ。

その頂上にある高級そうなレストランに入った。
気になるところは、やはり食事である。
ここは僕がごちそうすると約束してたので、なんとか
高級なところは勘弁してほしいと願っていたのだが。
しかしながら、ローランド君は家に友達が来ていて
今日は家族でバーベキューパーティだという。
なので、僕らはコーヒーとケーキだけ。(地元のケーキらしいがこれが素朴

な感じで美味かった。)
ローランド君はトニックウォーターだけ。
結局アルコールなしで解散した。

もっと僕が英語が達者だったら彼は恐らく僕とビジネスをしたかったんだと

思う。
僕も英語が達者だったら、話に乗りたいのは山々である。

英語ができるとやはりチャンスは広がるのである。

それにしても人がいいローランド君であった。
ローランド君、ありがとう。

人も世界遺産も飾り気なしアルバニア

ちょっと前まで鎖国してたって、ねずみ講で国が傾いたって
アルバニアにも世界遺産があるんです。
サランだからバスで1時間半くらい。
天気も良く空気のよい山道をトルコポップのかかったバスは走っていく。
バスを降りて山道を登るとジロカストラ城とその城下町がある。
街の人達は旅行者にウェルカムで、みんな手を振って迎えてくれる。
僕らがどこに行くか知らないくせに、「あっちだあっちだ!」と
指を差して案内してくれる。
ジロカストラ城に入ると、本当に手付かずの城というか廃墟というか。
落石とかしないかと思うような壁や照明の全くない城内。
草ぼうぼうの庭園?とか、こんなに観光化されてない世界遺産も
あるのかと、ちょっと嬉しくなった。
ここの地下には共産主義時代の政府要人避難所が今でも残されているらしいが、依然公開されていない。
ちなみにこの城には、歴代の自動小銃やライフル銃の他、機銃や迫撃砲などの武器があり
マニアにはたまらないだろう。(別料金で見れます)
城下に降りるとまた陽気な市民が迎えてくれる。
地元の人達に混じって昼ごはんをいただく。
狭い店なので、他のお客さんたちがわざわざ席を作ってくれ
こっちこっちと手招きしてくれる。
みんなの雰囲気に飲まれ、ついつい昼からワインを飲む。

帰りは道端でバスを待っていると、通りかかった車が僕らをタダで拾ってくれた。

ここからまた新しいドラマが始まる。

アルバニアはもうアジアな感じ

いつも列強国にやられて苦い思いをしてきた歴史のアルバニア。
戦後は共産体制になるも、ソ連と袂を絶ちさらには中国とも絶縁し
鎖国の道を選びヨーロッパ最後の秘境とも言われるアルバニア。
共産体制が崩壊した後には、知識や情報を持たない国民が
数十社もあるねずみ講に騙され(体制中枢エリートが関与)、
どの会社も破錠し、国民の3分の1の財産が吹っ飛び
国内で暴動が起き、ついには非常事態宣言、そして
多国籍軍に依頼という悲しい国。
モンテネグロがラテン語で黒い山ならアルバニアは白い大地。

やはりアルバニアの首都ティラナに到着した時も
天気はさえなかった。ここ数日太陽を見ていない。

今回も予約済みにも関わらず、宿を見つけるのに結構時間がかかり
というのも、やはり看板がなかったので同じ通りを
右往左往してしまったからだ。
三階建ての一戸建てを使った宿で、スタッフは出入口の門扉まで
迎えに来てくれた。

スタッフは耳も口も不自由な青年で応対は全て身振り手振り。
細かいことは筆談だ。
こちらも元々英語が喋れないので、何ら不自由はない。
ただ、耳が聞こえなくても口の動きでわかるらしいのだが
僕の英語の発音があまりにも適当なので、口の動きでは
わかってもらえないという英語ベタの現実。
宿には僕ら以外の宿泊者はいない。
この季節のユーゴ圏はほとんど宿泊客はいない。
そして停電ではなく、断水。
この国では計画的に停電や断水が行われるらしく、各家庭で溜水が
用意されている。


翌朝はやはり雨。しかも雷雨。
ティラナから南のサランダというギリシャ国境と数キロしかはなれていない街に移動する。
バスで約6時間から8時間と聞く。
基本的にアルバニアにはバスターミナルがない。
「だいたいここらへんにどこどこ行きのバスが何時頃くる」というような情報しかない。
僕らは、あやふやな情報を頼りに雨の中立ち尽くした。
結局バスを捕まえることはできず、午後1時過ぎにミニバス(乗合ワゴン車)に乗った。
このミニバスが凄かった。
土砂降りの山道をブンブン飛ばす。乗り心地などは関係なしだ。
そして前方の車をバンバン抜き去っていく。
なんともアグレッシブな運転だ。
二車線の道路を対向車が来ても三車線状態で追い抜きをかける。
もう冷や冷やするし、縦揺れ横揺れで読書や睡眠は到底無理である。
これを数時間走ると、さすがに慣れているはずの地元住民たちも
酔って吐き始めた。
舗装道路もなくなり砂利道悪路でますます極まってくる。
車窓からは道路脇に転がり落ちた大型バスの残骸が見えたりして
ゾッとさせられる。
今僕達の旅は大まかに東に向かっている。中東、アジアに向かってる。
これからこんな移動が増えるんだろうなぁと思いながら
荷物も軽くなっていくけど、自分の命も軽くなっていくんだなぁと
しんみりしてしまった。
5時間の間に一度10分ほどの休憩を入れただけで、暗くなった村で
車は停まり、運転手は降りてしまい、酒を飲み始めた。
酒は現地の蒸留酒ラキアである。40度前後はある。
そして、わけわからず僕も飲まされた。
もう、このオヤジは運転放棄だ。
今から来るバスに乗り換えてサランダに迎えという。
どんなシステムやねん!

バスが山の向こうから来ると、運転手のオヤジが大手を振って
バスを停めに行った。そして何やら交渉。
何故か支払なしでバスに乗車でき、1時間後にはサランダに到着。
大雨は最高潮で雷もこれでもかっと瞬く。
到着地点は坂道で、もう道路は川の如しで、バスから降りられない。
バスで一緒になった日本人夫婦と意を決して宿へ向かう。
その日本人夫婦は僕らのブログやツイッターをたまたまチェック
してくれたらしく、僕らの動きは読まれていた。
しかし、彼らの行動はコトルを僕らより1日早く出ている。
にも関わらずサランダへの途中の村で同じバスに乗り込んできたので
どうも僕らを別人だと思ったらしい。それくらいアグレッシブな運転のミニバスだったのである。


宿に向かう途中で、幸運にも雨はやんだ。
車に乗ってただけなのに、長い一日だったなぁ。

翌日の朝は快晴で、宿のベランダからは穏やかなサランダの海が見えた。


コトルからティラナへバス移動

バスで一日でコトルからティラナへ移動した経緯は以下のとおり。
7:38発コトル発(6.5ユーロ)
9:15バール着
9:40バール発(2.5ユーロ)
10:15ウルツィニ着
12:30ウルツィニ発(6ユーロ)
13:50シュコダル着
13:55シュコダル発(5ユーロ)ミニバスというか乗合タクシー?
15:40ティラナ着
ウルツィニ発シュコダル行きが本数が少ない。
もしかすると、コトル発やバール発はもっと遅いバスでも間に合うかも。
それと、モンテネグロとアルバニアの国境でのイミグレはパスポートをチェックするだけ。
ちなみにアルバニアに以前はあった入国税は昨年廃止になり今はありません。
タクシーの運転手によっては、タクシー代支払い時に入国税を立て替えておいたと言って
料金以外に騙し取るケースがあるみたいです。
この後アルバニアで出会った夫婦がまんまと引っ掛って、このネタを教えてくれました。
みなさん注意!

ユーゴスラビア紀行(モンテネグロ編)

サラエヴォを出たバスは山の中を越え、景観の良い湖やら岩山やらを
見せつけ国境を渡ってモンテネグロに向かった。

ラテン語で「黒い山」と呼ばれるモンテネグロ。

モンテネグロのポトゴリツァでバスを乗り換えるころには暴風雨だったが
コトルに着いたときは、ありがたいことに雨だけは止んでいた。

宿は旧市街の城壁の中にあるのだが、看板は出てないし
グーグルマップはヘンテコな場所を指すし、見つからなく
重たい荷物を下ろしたいがために入った軒下が
たまたま宿だった。表札すらない。
宿にはほとんど宿泊客はなく、借りたドミの部屋は使い放題の
プライベートルーム状態だ。

が、翌日も暴風雨で外には出られず、旧市街の街を散策する程度。
そして宿にはどんどん新しい宿泊客がやってくる。
あっという間に部屋は満室になってしまった。
その新しい宿泊客には日本人が二人もいて、旅話でまた盛り上がった。
二人ともアジアから回ってきているので、東の情報がたくさんもらえる。
イスラム圏でラマダン体験の話など興味深い話も多かったし
一人は旅を始めて早々に痛風になったという珍しいバックパッカー。
成都で文字通り1ヶ月足留めになった話など。
また、恒例の?データの交換もした。
映画数本と漫画(風の谷のナウシカの漫画書籍のPDF)をいただいた。
なんでもバックパッカーにはジブリ好きの割合が高いらしい話も出た。

結局暴風雨は止まず、自ら観光ストライキと決め込み僕ら二人は
翌日朝にこのコトルを後にした。


2010年11月24日水曜日

ユーゴスラビア紀行(ボスニア・ヘルツェゴビナ編)

ボスニアのバスターミナルに到着したのは予定より早く
まだ夜も明けない暗闇の中だった。

ボスニア・ヘルツェゴビナの通貨は僕からするとヘンテコな
兌換マルク(だかんマルク)だって。
2002年までドイツマルクと1:1の固定で交換可能だったことからだそうだ。
今はユーロと同じレートだとか。
その通貨がないとサラエヴォ市街地にも行けない。
カフェにも入れない。
夜明けを待って、バスターミナルから砂利道を通りデパートにある
ATMで現地通貨を手に入れた。

バスチケットブースのおばちゃんにチケットを売ってるかどうか
聞こうと思い、「Excuse me」と声を掛けるやいなや「No」って
チケットの有る無し以前にどうやら英語がダメだということらしい。
前日までいたセルビアと反対にボスニアは、英語が通じにくく
観光客にも慣れていないようだ。

この国もまた1995年までは紛争地帯だった場所だ。
古くて少し高い建物には、当たり前のように弾痕が残っており
傷跡がまだ生々しい。

ユーゴで1番復興が遅れてる?ような感じだった。

観光地と言っても、第1次世界大戦の火蓋を切ったサラエヴォ事件の
発祥地の橋だったり、サラエヴォオリンピック会場といっても
その周囲はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争戦没者の墓で埋め尽くされて
いたり、そこを通れば女性も子供も撃たれた通称スナイパー通りだったり・・・。
なんかこうパッとした明るさとか荘厳さとか華やかさとかは皆無で
くら~いイメージだけが漂う。
でもサラエヴォ市内にはまるで金沢かって感じの城下町風情があったり
するのである。
ヨーロッパで石造りの建物に見慣れた僕達にはその木造の建物は
とても懐かしくもあり暖かく感じた。
まるで縁側みたいなとこに座って卓袱台で観光客がお茶を飲んでるような
景観になってました。
クロアチア→スロベニア→セルビア→ボスニア・ヘルツェゴビナ
ときたら、次はモンテネグロです。


ユーゴスラビア紀行(セルビア編)

電車がセルビアのベオグラード駅に滑り込んだのは、昼過ぎだった。
本当はバスで朝には着いているはずだったが、バスが来ないという惨事に
仕方なく電車でなんとかベオグラードにやって来た。
車窓からは荒れ果てた駅やスラムが映しだされる。
なんだか荒んでいるなぁと思う。何しろ数年前まで内戦をしており
やっと復興してきた国だし、いまだにコソボ問題も抱えている国だ。

多少の不安があるものの、街に繰り出し予約していた宿を探し始めると
その暗雲は一気に消え去った。

ベオグラード市民は旅人に優しい。
フランスやドイツ、ベルギーやオランダでも道くらいは教えてくれた。
だが、この街は今まで体験してきた優しさ頻度が高く質も良い。
道は、地図を広げた瞬時に「Can I help you?」とやってくる。
しかも、地図を広げずキョロキョロしている段階で周りに
声をかけるタイミングを図っている人がいるくらいだ。
そして、英語がダメダメな僕達に対して、わざわざ連れて行ってくれる人もいる。
さらには、学生の男子や女子、カップル、おばあさんやおっちゃんなど
年齢や性別に関わらず、手助けしてくれるのだ。
英語の教育も老若男女に行き届いているようだ。

デカい荷物持ってをバスに乗り込もうとすると、荷物を持ってくれ
バスチケットの刻印の仕方がわからず戸惑っていると、
また別の人が、刻印の仕方を教えてくれる。

どうしてこの人達は、こんなに旅人に優しいのか?
どこでこのような教育を受けたのかがとても気になる。
旅をしていると、優しくされるとダマされるんじゃないかという
猜疑心ばかりだが、この優しさにはホッとしてしまう。

ま、ホッとしていると道案内のついでに地図上で
「ここの景色がキレイ」とか、「ここに行くといいわよ」とか
聞いてない情報まで教えてくれたりするのだが。
結局このベオグラード市民の優しさは、たぶんだが
自分の国や街を愛しているから出てくるものなのだろうと。
もっと、見てほしい。もっと知ってほしい、と。

僕はこの街がとても好きになってしまった。
ま、セルビアはベオグラード。人が優しいだけじゃない。
ってことで、続けて書いときます。


セルビアはとにかく背の高い人が目立つ。
なんでもアラウンド2mはざらにいるらしく、男も女も和田アキ子並である。
そして羊肉がセルビアに限らずユーゴ圏では名物みたい。
羊肉が食べたいとなるととにかく食べたい。
ってことで、レストランの店員さんが笑うほど羊肉の
オンパレードにしました。

この街の人たちは、おいしい店と知っていると、並んでまで手に入れたいらしく、例えばケバブ屋さんが数軒並んでいて、おいしい店が一つあったらその店にしか行かない。並んででも待つ。他の店はお客さんがいない。
とても分かりやすい人たちだし、おいしい店が分かりやすい。
アートやステージなども盛んなようで、街中にはギャラリーや
演劇などのポスターなんかも目立つ。
時間があったら本当に観てみたかった。
空爆跡意外にもちゃんと観光スポットだってあるんです。
ぜひ遊びに行ってほしいのだ。